新次郎×昴
誕生日記念。24:00に帰宅のお話
蒼作
夜遅く。シアターからの帰り道。
もう、慣れ親しんだその道を、機嫌よさげに歩いているのは、 大河新次郎 。
「えへへへ」
我慢しきれないのか、時折嬉しげな声が漏れる事を止められない。そんな姿は、はたから見ると怪しい事この上ないが、本人はその事に気付いていない。
そんな彼の唯一の救いは、シアターから此処まで人と擦れ違う事が無かった事だろう。
そうして、そんな風に歩き続ければ何時しか自分の部屋の側。歩きながらポケットを探って鍵を探す。
「あった」
少々手間取って引っ張り出した鍵を目の前まで持ち上げて笑顔を零す。
「君は、何処までも興味深いな……」
「わひゃぁっ!?」
突然脇から声を掛けられて、新次郎は文字通り飛び上がって驚いた。
それから、慌てて声のした方へと顔を向ければ、其処には 九条昴 。その人が居た。
「すっ、すす昴さん!?」
「昴は言った。此処が君の家だろう。何処まで行くつもりだ……と」
扇を広げて口元を覆い隠し、昴はこれ見よがしに溜息を吐いた。
新次郎は昴に言われてから、え?とばかりに周囲を見渡す。そして、鍵を探す事に夢中で自分の部屋の前を通り過ぎてしまっている事に始めて気付いた。声を掛けて来た昴も少々後方にいる。
「あ、あははは」
あまりの自分の間抜けさ加減に、誤魔化すように苦笑い。
昴はそんな新次郎を見て、もう一度小さく溜息を吐いて、ドアノブへと手を伸ばしドアを開けた。
「ともあれ、お帰り。勝手に上がらせて貰ったよ」
そうして、鍵のついたキーホルダーを掲げ、昴は新次郎へと優しく微笑んだ。
部屋に入れば、テーブルには昴専用の湯飲みが置いてあり、それはどうやら飲み掛けのお茶らしいかった。
部屋に来た昴が飲んでいたのだと胸中で呟いて再確認する。
「お茶でいいかい?それともホットミルク?」
昴は、部屋に入ればそのまま部屋備え付けの簡易キッチンへと足を運ぶ。
「あ、すみません。それじゃぁ、………お茶を」
昴の背を見ながら、自分は他にする事もない為、新次郎は大人しく椅子に座って待つ事にする。
そして、椅子についてやっと一安心したのか、今日一日の疲れが押し寄せてきた。
「そう言えば、何で外に居たんです?昴さん」
小さく息を吐いてから、疲れに落ちそうな顔を上げて、昴の背に問い掛けた。部屋で待っていればいいじゃないですかと、視線が昴の姿を捉え。
「なに、君がそろそろ帰ってくるのではないかと思ってね。僕の予想は当たりやすい。外へ出て幾らもしないうちに、大河。君が帰ってきたからね」
フフと笑いながら、だから長時間外に居たわけではないから心配するなと言外に伝え、マグカップを手に新次郎の側へと戻る。
コトリ。カップを新次郎の前に置いてやり、昴は空いている新次郎の対面の席に腰を落ち着ける。
新次郎の前に置かれたカップからは湯気が立ち上り、僅かに甘い香りがする白い液体が波紋を描いていた。
新次郎は、それをじっと見つめてから上目遣いに顔を少し上げて昴を恨めしそうに見やる。
「ホットミルク。それが良かったんだろう?」
ちょっと、意地悪そうに笑いながら昴はもう冷めてしまっている自分の湯飲みに残っていたお茶へと口を付けた。
「うぅ……。あっ、暖かいお茶入れます?」
「いや、結構だ。これで良い」
そう言うと、またお茶へと口を付けた。そんな昴を暫し見つめた後、新次郎もせっかく昴が用意してくれたホットミルクを口へと運んだ。
暖かく、少し甘い味が口内へと広がり、何だかホッとする。次いで胃へとそれを流し込めば、胃が優しく満たされた。
「ところで、君は何をニヤニヤしていたんだい?」
昴は、湯飲みを置くと扇を軽く広げた。
「へ?」
自分では自覚していなかった事を尋ねられて、きょとんとした表情で新次郎は昴を見やる。それから、小首を傾げた。
「自覚、無しか。実に君らしいね」
クスクスと笑いながら、昴は髪を軽く掻き上げる。
「ま、どうせ明日の事でも考えていたんだろう?」
ぱちりと扇を閉じて、それで新次郎の鼻を小突く。
「あいたっ。むぅ、何で分かっちゃうんでしょう。昴さんって凄いですね」
「大河は直ぐに表情に出る。だから、読みやすい」
小さく息を吐きながら、扇を引き戻しそれを昴は顎に当てた。
君に、ポーカーフェイスは似合わない。何て、胸中で呟くも昴はそれを口には出さずに苦笑いだけを浮かべた。
「昴さんの言う通り。僕、明日が楽しみなんですっ。誕生日を祝ってくれるのが嬉しくって。それが、顔に出ちゃったんですね。いけないいけない」
ぱんぱんと両頬を叩いて表情を改めようとするも、直ぐににへらとしてしまう新次郎。
「君らしくて良いと思うよ。僕は」
昴は、一生懸命表情を変えようと努力する新次郎を見て笑む。
「えへへ。いくつになっても、お祝いされるのって何だか嬉しくって。僕は皆が居てくれるだけで、それだけで嬉しいんですけどねっ」
本当に嬉しそうに笑う新次郎につられるように、昴も自然と口元が綻んでしまう。それを隠すように昴は慌てて扇を開く。
そんな昴の様子に気付く訳も無く、新次郎はミルクを半分程飲んでから、あれ?と改めて昴を見やった。
「昴さん、今日は何で此処に?」
今日一日。昴の口から、家に来るとは聞いてない事を今更ながらに思い出して、じっと昴を見つめる。
「用が無ければ、僕は来てはいけないのかい?」
何時の間にか空になった湯飲みを眺めてから、昴はじろり新次郎を見た。
「あ!いえっ!!そんな事はありませんです!用が無くたって、全然っ!何時でも来てください!」
がたんっと椅子を倒して立ち上がり、心底慌ててまくし立てる。本当に焦っているようで、わたわたと両腕を意味も無く振り回す。
「フッ!ハハハ!冗談だよ、新次郎。わかってるから」
新次郎の慌て振りに、思わず笑い出した昴は優しく新次郎を宥める。
「あ、あのっ、え!?」
新次郎は、からかわれている事に気付けずに何が何だか分からず、動きが止まって今度はぽかんと口を開けた。
そんな新次郎を見つめながら、尚も昴は小さく笑う。
「まぁ、でも今日は用があって来たんだけどね」
「?」
とりあえず座れと昴に促され、新次郎は椅子を立て直し座る。
それから、今度はミルクを一口飲めと言われ、一口口を付ければ、何だか気分が落ち着いた。
そんな新次郎の心境を確認してから、昴は開いたままの扇を静かに口元を隠すように置いてゆっくりと口を開く。
「なんて事は無いさ。新次郎、君の一年に一度ある変わり目。その日、その境目を、一緒に過ごしたかっただけさ」
そう言ってから、昴はにこりと笑い扇を閉じた。
「……えっ?えぇっ!?」
昴の言葉の意味を理解するのに数秒をようしたものの、理解できれば急に顔が真っ赤になって。
「迷惑、だったかい?」
昴が小首を傾げる。
「そっ!そんな事ありませんっ!!す、すっごく嬉しいです!」
また、椅子を蹴倒し立ち上がれば、テーブルへと身を乗り出し。
「それは、よかった。僕も嬉しいよ」
昴は微笑み、ゆっくりと立ち上がり。ちらりと、時計を確認すれば不適に笑って。
「さ、日が変わった。おめでとう、新次郎」
そして昴は、新次郎へと口付けた。
あまりの自然な動作に、新次郎は驚くのも忘れ昴をじっと見つめるだけ。
唇が離れ、昴がまた優しく微笑んだ。
「プレゼントは明日…いや、今日か。そのパーティーで」
ス――と昴は身を引き離れ、最後にそっと新次郎の頬を撫でた。
「あ………」
さっきと同様、真っ赤になると思ったが、新次郎は予想外に嬉しそうに笑ってから離れ行く昴の手を取った。
「ありがとうございます。僕…、凄く、ホント、凄く嬉しいです」
握った手を大切に握り、頬に当てその温もりを感じながら。
「僕も、僕も…昴さんの変わり目の日に、一緒に居たいです。居ても、いいですか?」
昴は僅かな驚きと共に、引き剥がせない手と頬の温もりを心地良く感じながら、苦笑った。
「気長な話だ。覚えていたらね…」
そっと、手を引いた。
「僕はっ、絶対覚えてますからねっ」
名残惜しそうに、でも離れ行くその手を追わず、変わりに昴の瞳をじっと見つめる。
昴は、クスリと笑い、視線を新次郎のそれと絡ませてからテーブルから離れ、歩き出した。
「おやすみ、新次郎。また、今日の朝に……」
外へと歩んで行く昴の背を追い、新次郎も歩む。
此処までで良い、と視線で止められ新次郎はドアの前で立ち止まる。そして、昴の背を見送った。
「まったく、これだから君って奴は………」
もう、普通に声を出しても新次郎へは届かないだろう場所で、それでも気にするように小さな声で昴は呟いた。
今が夜中で良かった。人とも擦れ違わないし、この夜の闇が表情を隠してくれる。朝になる前に、この気持ちを落ち着けなければいけない。シアターの連中は聡いのが多いから。そう思いながら、けれど、昴は今在る笑みを消せないで居た。
そんな昴の背を見えなくなるまで見送った新次郎は、唇に手を当て暫し黙る。そして、今更。何だか恥かしくなって顔が赤くなる。
あぁ、今日は絶対に良い日に違いない。
新次郎×昴
帰宅途中のお話
蒼作
夜の見回りも終わり、新次郎はシアターを出た。
すると、シアターの前に黒塗りの車が止まっていた。そして、丁度その車に乗り込む昴の背が見える。
挨拶をしようと、一歩踏み出したが、昴は車の中へとその姿を消してしまった。
そうなってしまえば、きっと声も届かないだろうし、もし気付いてもらえてもその場に止めてしまうのは悪い。
仕方ない、とちょっと肩を落とし新次郎は声を掛けるのを諦めた。
そうして、自分も家路に付こうと歩き出したが、最後にもう一度と思い昴の乗った車へと目を向ける。
すると、何時の間にこちらに気付いたのか、昴がおいでおいでと車の中から手招きをしていた。
新次郎は、きょろきょろと周囲を見回す。
だが、其処には自分以外誰も居ない。
もう一度車へと視線を向けて、ぼくですか?と自分を指差し聞いてみれば、昴はこくりと頷いた。
それを見た新次郎は喜び勇んで車へと駆け寄る。
ある程度近付けば、歩みを止める新次郎。
しかし、昴は車の窓を開けるでもなく、まだおいでおいでと手招きをしていた。
新次郎は躊躇もせず、もっと車へと近付いた。それでも、昴はまだ手を振っている。
今度は、新次郎も小首を傾げるが昴が呼んでいるのだ、疑う事もせずに更に車へと近付く。
車との距離はもう、軽く手を伸ばすだけで届いてしまう。
そんな距離。車内の昴を見やる。
何時も手にしている鉄扇を開き口元を隠しながら、空いている手でまだおいでをしている。
昴が何を求めているのか、今一解らない新次郎は、それでも大人しく言う事を聞いて窓へと顔を近づけた。
昴が扇を閉じた。露になった唇へと視線を向けていると、その唇が紡ぐ。
『もう少し近づけ』
唇の動きを読み取った新次郎は、疑問も何も思い浮かべる事無くやはり素直に昴の言う事を聞いて更に顔を近づけた。車の窓に、額と鼻の頭、それと唇が軽く触れる。
ふと、昴が動いた。
窓に触れた唇。
昴は、窓越しに新次郎へとキスをした。
ゆっくりと窓から離れ、扇を軽く開き口元へとあてる昴を新次郎は、驚きに目を見開き身を軽く窓から離してから呆然と見た。そんな新次郎を見てフフフと昴は笑う。
そして、昴の唇がもう一度何かを紡ぐ。
『おやすみ、大河』
そうして扇を閉じれば、昴は運転手へと声を掛け車を出発させた。
新次郎は、車を見送り暫しその場に立ち尽くしたかと思えば、急に顔を紅く染め周囲を慌てて見回す。
視線を走らせた周囲には誰も居ない。其れに安堵の吐息を漏らしてから、口元を軽く手で押さえる。
「うぅ、反則です。昴さん」
顔を紅く染めたまま、車が去った方へと視線を向けつつ新次郎はそう呟いた。
それから、そのままずっと其処に佇んでいるわけにもいかず、新次郎は歩き出す。
これでもかと言うぐらい、幸せそうな顔をして―――。
新次郎×昴
見回り後のお話
蒼作
舞が……微妙?もっとこう、上手くかければいいんだけど学もないし……○| ̄|_
今度、もうちょっと真面目に舞いのシーンを書いてみようかと、ちょっと見当。
「見回りの最後に」
大河新次郎は、シアターの夜の見回りをしていた。
ふと、時計を見やればそれもそろそろ終わりの時間。
新次郎は最後に舞台を見回りに行こうと足を向ける。
夜のシアターは、昼とはうって変わって静寂だけが支配する。
喧騒は何処にも無く、小さく呟く言葉さえも響き渡ってしまいそうだ。
怖いわけじゃない。強いて言うならば寂しい。それが今この場に合う
言葉だろうか。
新次郎は一度背を震わす。この静寂に、独り飲み込まれてしまうよう
な錯覚を覚えて。
そして、暫くすれば舞台へと辿り着いた。
袖から舞台を見やった時、人影が見えた気がした。
「う゛………」
嫌な予感。まさか、まさかだよねと言い聞かせ。手にした明かりを軽
く隠しながらもう一度舞台を見やる。
舞台には、薄い明かりが灯っていた。
視界に、ふわりと扇が舞う。紫がゆるりと舞台を移動する。
それは、静かな舞だった。それでいて何処か凛としている。揺らぎな
ど何処にも見えず、ただ、ひらりひらりと舞っているようで、時折鋭
さを見せるそれ。
「…………うわぁ」
思わず感嘆が喉の奥から漏れ出る。
すると、舞が突然止まった。一枚の扇が閉じられ、もう一枚が、顔の
位置でゆるりと止まる。
「昴は言った。其処に居るのは誰だ……と」
透き通った声が新次郎の耳に届いた。忘れようも無いその声にちょっ
とビクリと背を正す。
「あ、あの新次郎ですっ。すみません、お邪魔しちゃって……」
隠していた明かりを引き戻し、昴の居る舞台へと向かい歩き出す新次
郎。
その姿を確認した昴は、扇の奥で小さく笑みを零す。
「いや、気にしないでいいよ。ちょっと身体を動かしていただけだか
ら」
パチンっと扇を閉じる音が、静かな舞台と客席に響いた。
「そうなんですか?でも、なんて言うか……こう、神秘的でした」
えへへと笑いながら昴の側に来れば立ち止まり。
「………神秘的?そんな大層な物じゃぁないよ」
扇の先を顎に当て苦笑する昴。本当にそんな大した物じゃない。ただ
本当に身体を動かしていただけなのだから。
「で、でも。そう見えたんですからっ」
何故か力説する新次郎に、仕方ないなと昴は小さく笑う。
「所でキミは見回りかい?」
昴が、尋ねながら小首を傾げる。
そんな姿を可愛いなぁなんて思いながら眺めつつ、新次郎は答える。
「はいっ。って言っても、もう此処で終わりなんですけどね。でも、
びっくりしました。まさか昴さんが居るとは思わなかったので」
軽く首筋を撫でながら苦笑を漏らす。てっきり自分独りだと思ってい
たシアター内に、知らなかったとは言え大好きな昴が居たのだ。それ
だけで心が温かくなる。
「そうか………」
昴は、扇で口元を隠しながら暫しの思案顔。どうしたのだろうと新次
郎が首を傾げていると、昴は小さく微笑みながら口を開いた。
「折角だ、大河。一緒に帰ろうか?」
その言葉に新次郎はパッと顔を輝かせた。
「良いんですかっ!?」
嬉しそうな顔をして昴に詰め寄る新次郎。勢い込んで迫っている為、
昴に程近い場所に居る事に気付かない。
そんな新次郎を、バカだなぁと心中でからかいながら軽く身を反らし
てから扇で頭を叩く。
「良いから誘っているに決まってるだろう?」
打たれた頭を軽く摩りながら、身体を戻し。それでも嬉しそうな顔で
えへへと笑う新次郎は、元気よく、はいっと頷いた。
「帰ります。一緒に帰りましょうっ」
今すぐにでも、帰ろうとする新次郎を昴は呆れ顔で見つめる。
「シアターの前で待ってる。帰り支度をしておいで」
新次郎の頭に手を伸ばし、子供をあやすように頭を撫でる昴。
新次郎は、顔を赤くして子ども扱いしないで下さいと視線で反論する
が、そんな事で昴に勝てるわけも無く。
「さ、僕をあまり待たせないようにね」
頭を撫で終えると、昴は歩き出す。新次郎をその場において。
「あっ、はいっ!直ぐに戻ってきますからねっ」
そう言って、新次郎は先行する昴を追い抜いて走って行ってしまう。
新次郎の持つ明かりが、暗い廊下に尾を引いて消えて行く。
そんな様を昴は小さく微笑みながら見つめていた。
大神×織姫
誕生日記念、七夕のお話
黄緑作
「七夕の奇跡」
今日の七夕特別公演「織姫と彦星」は見事際盛況に終わり、打ち上げも兼ねた織姫の誕生日会も大いに盛り上がった。
舞台が跳ねた後だったので気分が高揚したせいか皆随分と羽目を外して騒いでいた。
けれど、身体は疲れていたのだろう。
いつもなら誰かしろ起きている時間帯であるにも関わらず、皆部屋で休んでいる。
そんな中、大神はかえでが伝え忘れた明日の予定を各々に伝えながら一人見回りをしていた。
(レニ・すみれ君・カンナには誕生日会が終わった直後に伝えられたから大丈夫だよな。マリアはかえでさんに直接聞いたみたいだから、マリアも大丈夫。アイリスは……伝えた事には伝えたけど、随分と眠そうだったからな。)
そこまで考えて、先ほどまで会っていたアイリスの事を思い出す。
部屋で寝る準備万端だったアイリスは、起きているのが不思議なくらい眠そうだったが、必死に瞬きをしながら話を聞いていた。
けれど、意識が飛んだのか何度もカクッと頭が下がっていたので、会話の内容を覚えているかは怪しいところだ。
(明日の朝、また言った方が良さそうだな。)
俺は記憶の中の微笑ましい様子に密かに笑ってから、再び仕事に思考を戻す。
アイリス以外の他のメンバーも大体部屋で休んでいたから、大体伝言は終わった。
一人を除いては。
(……織姫君。何処にいったんだろう?)
今回の主役である織姫だけは部屋におらず、伝言も伝えていない。
ノックをしても返事が無く、寝ているだけかとも思ったのだが、それにしては人の気配がしなかった。
織姫が一番疲れているだろうに、どうしたのだろうか。
彼女の事を想いながら中庭へ向かった。
2006.07.07 黄緑
中庭に出ると、少し強めの風に闇の中で雲が動いているのがぼんやりと見えた。
空は生憎の曇天。折角の七夕なのに星の一つも見えない。
前日に花組の皆と一緒に飾った笹の葉と短冊のサラサラと擦れ合う音が、物悲しさを増徴させた。
特に誕生日である織姫は、この日天の川を見ることを楽しみにしていたのだ。
彼女はプライドが高いから表立って喜んでいた訳ではないが、それでも七夕が近付くにつれて織姫に笑顔が増えていった事に気がついていた。
だから、今朝の蒸気ラジオで「今日は一日曇り空でしょう」と伝えられたときに、誰よりも落ち込んでいたのも知っていた。
(星が見えればよかったんだけどな。せめて、一瞬でも。)
そう思いながら空を見て、それから視線を笹に移した。
すると、風に翻る短冊や笹飾りの中に飾りには似つかわしくないものを見つけた。
ふわふわと揺れる白い物体。これは……
「てるてる坊主?」
思わず疑問系になってしまったのは、それがどこか不恰好だったからだ。
笹に吊るしてあるてるてる坊主の紐を指で抓んで間近で見ると、紐を固定してあるにも関わらず器用にくるりとひっくり返った。
これでは逆に雨が降りそうだ。
「どうしてこんな所にこれをつけたんだろうな…?」
俺は後ろを振り向いて、じっと植木の向こうの草陰を見つめてからこう言った。
「ねぇ、織姫君。」
その瞬間、ガサガサッと大きな音がした。
スタスタと植木に近付いて上から覗き込み、蹲っている少女の頭をポンと叩く。
「そろそろ出ておいで。服が汚れるよ?」
「………いつから気付いていたですか?」
「…ついさっき、かな。」
実を言うと、中庭に入ったときから既に人の気配に気付いていた。
けれど、部屋に居なかった織姫か神出鬼没な加山か判別はつかなかったため、カマをかけてみたのだ。
といっても、そんなことを言ったら只でさえむくれている織姫が余計悔しがる姿が目に浮かんだので、言うのは敢えて避けておく。
「それで、どうしたんだい?こんなところで。」
「別に?ちょっと眠れないから散歩してただけでーす!中尉さんは見回りの途中でしょ?こんな所で時間を潰して良いですか?」
話を変えるように尋ねるとが、話す気はないのかそ知らぬ顔でそっぽむいてしまった。
この状態でこの言い訳は滅茶苦茶だが、今は表情に動揺は見られない。流石は女優。
どんなに無理だろうが無茶だろうが、彼女なら俺を言いくるめる事くらい簡単だろう。
だが、彼女はその言い訳が通用しない決定的な証拠があることにまだ気付いていない。
思わず苦笑すると、織姫はそれを目ざとく見つけて睨みつけてきた。
「なんですか~?」
「いや、なんでもないよ。あと、見回りなら大丈夫。ここが最後だったんだ。だから、」
そこで一旦言葉を切って、織姫の足元を指差した。そこには、さきほど笹に吊るされていたものと同じ白い物体が程植木に引っかかっている。
恐らく立ち上がったときに引っ掛けて落ちたのだろう。
それを拾い上げて、少し付いてしまった汚れを叩き落とす。
「これ。付けるの手伝うよ」
そう言って白い物体――――てるてる坊主――――を織姫の目の前で小さく揺らすと、一気に織姫の顔が真っ赤になった。
「に、日本の男デリカシー無いでーす!!こういうものは気付かない振りをするものじゃ無いんですかー?!」
てるてる坊主を奪い取るように取り返してから、織姫は眉を吊り上げてきつく睨むんできた。
けれど、その怒りが照れから来ているものと分かっているのであまり迫力は無い。
むしろ「可愛いな」なんてどうしようもない事を心の中で考えながら、ごめんと一言謝った。
「本当にすまないと思ってるですか?」
「思ってるよ。今日は織姫君の気が済むまで付き合うから、許してくれないか?」
「ふぅ~ん……」
織姫は腕を組んで考えるそぶりを見せてから、ニヤリと意地悪く笑った。
「中尉さんがどうしてもって言うなら、それで許してあげなくもないですけどー?」
先ほどから、してやられてきた彼女の意趣返しなのだろう。
けれど、その言い回しがいかにも彼女らしい。
「あぁ。どうしても。駄目かい?」
「仕方ないですねー。中尉さんがそこまでいうなら、つき合わせてあげまーす。」
高慢に言い放った彼女と目が合って、特に何を話すでもなく顔を見合わせていたら、何故か笑いがこみ上げてきて。
気付いたら、お互いにクスクスと笑い合っていた。
「本当は今日晴れたら、中尉さんと一緒に星を見たかったんです。」
織姫は笹につけたてるてる坊主や、植木に引っかかっていたてるてる坊主以外にも5つ程隠し持っていたが、それはどれも首を傾げたような歪な形になっていた。
器用にひっくり返るてるてる坊主の紐を解き、形を整えてから再び結んで織姫に渡す。
織姫は、渡されたてるてる坊主を笹に結ぶ。
その行為を黙々と繰り返していると、ふいに織姫がポツリと話し始めた。
「ラジオで「一日中曇り」って言ってましたんで、諦めようとも思ったんですけど。でもやっぱり、諦められなくって。」
だから、どうしても晴れて欲しくててるてる坊主を作ったのだと、織姫は呟いた。
父親に教わったてるてる坊主に、願いを託すことにしたのだ。
「部屋にも飾ったんですけれど、それでも晴れなくて。もしかしたら、願いを叶えてくれる笹ならに飾ったら、晴れるかもしれないって思ったんです。」
けれどその行動は子供みたいでやっぱり恥ずかしくて。
誰かが中庭に来たのを察して咄嗟に隠れたのだと笑いながら言った。
しかし「恥ずかしい」の部分が自分の中で引っかかって、首をかしげる。
「別に良いんじゃないかな。恥ずかしくないよ。」
反論をするが、織姫は下手なフォローだと思ったのか曖昧に笑うのみ。
そんな顔をさせたくなくて、なお言を紡ぐ。
「叶えたい願いがあったから、出来る努力をしたんだろう?それは、恥ずべき事じゃない。何もしないで後悔するよりも、ずっと良いと俺は思うよ。」
そう思わないか?と、同意を求めると、織姫は表情をみるみる明るくさせて頷いた。
「……そうですねー。後悔より、マシですよね。」
「だろ?」
それでもやはり子供じみているのが恥ずかしかったのか、素直じゃない言葉が織姫の口から出てきたが、彼女はどこかスッキリとした表情をしている。
元の明るい表情に戻ったのを確かめてから、最後の一つを織姫に手渡す。
そして、それを笹に結びつけた。
「これで完成でーす!後は、晴れるのを待つだけですね。」
7つのてるてる坊主をつけた笹は、愛嬌があるような気がして面白かった。
ベンチに座って、他愛の無い話をして笑い合いながら、2人星が出るのを待った。
待つ時間は退屈なものとは程遠く、久々の2人きりの時間をのんびりと過ごす。
いつもは花組の皆と一緒だから、その貴重な時間を楽しんだ。
「それにしても、どうして織姫君はそんなに星を見たかったんだい?」
『七夕だから』と言われればそれまでだが、ラジオで曇りだと伝えられていたのだから諦めそうな気もした。
文句も言うだろうし、不満もあるだろうが、織姫は案外サッパリとした性格……というか、切り替えが早い性格だ。
「てるてる坊主」なんて迷信に頼る程、何かをしようと自ら動くなど見たことが無い。
素朴な疑問を織姫にぶつけると、織姫は雲が広がっているだけの空を見上げた。
「ねぇ、中尉さん。誰かをずっと想いつづけるのは大変だと想いませんか?」
「え?」
先ほどの会話とは繋がっていなそうな質問を逆にされて、思わず答えを返せずに戸惑いの声が漏れる。
空を見上げつづける織姫の横顔を見ると、どこか切ない顔をしていた。
「人の心は不安定なものです。他に素敵な人を見つけたかもしれない。もう、自分の事を愛していないかもしれない。あるいは逆に、自分の気持ちが冷めてしまうかもしれない。」
確かに、人の心は目に見えないし移ろうものだ。
不安や、嫉妬や、妬み。そんな目を背けてしまいたくなるような感情は山のようにある。
だからこそ誰かを思いつづけることは難しい。
「長い間会えないのに、ずっとお互いを愛して、想いつづける。それって、凄い事だと思います。」
「……うん。そうだね。」
「だから年に一度の逢瀬ぐらい、叶えてあげたいじゃないですか。」
凛とした声が、願いが、夏の夜に小さく響いた。
同じ「織姫」という名前で思い入れがあるのか、自分の両親が長い間離れ離れになっていたことを思ってか、はたまた別の理由か。
それは分からないけれど、天の恋人達のことを思って晴れて欲しいと切実に思っているのは確かだった。
「織姫君……」
彼女の名前を呼ぶと空から視線をこちらに戻して、先ほどの表情は嘘のように消え、いつもの笑顔でこう言った。
こいびと
「それに、地上の織姫は彦星とずっと一緒なのに、天の織姫が彦星に年に一度も会えないんじゃ不公平でしょ~?」
少しおどけるように言ったセリフは本心かどうか分からないけれど、その辺は敢えて聞かないでおく事にした。
どちらにしても、願いは同じ。
「だから、晴れて欲しいんで~す。」
「晴れるよ、絶対に。」
だって、地上の織姫がこれだけ願っているんだから。
――――――――それから、どれだけ待っただろうか。
眠り静まった劇場は、風の音と笹の揺れる音しか聞こえない。
公演と誕生日会で疲れきっていた織姫は、肩にもたれ掛かって眠っている。
織姫を起こさないようにじっとしながら空を見つづけていると、遠くに雲の切れ間が見える事に気がついた。
「織姫君、起きて。」
「ん~……。あれ?私、寝てたですか?」
「少しの時間だけね。…それよりほら、あれ。」
織姫の意識がハッキリするまで待ってから空を指差すと、織姫は驚きに目を見開いた。
雲の切れ間は風に吹かれて瞬く間に広がっていく。
懐中時計に視線を落とすと、時間は11時半。
ギリギリだが7月7日だ。
再び視線を空に戻して様子を固唾を飲んで見守っていると、切れ間はとうとう中庭の上空までやってきた。
そして……
「見えた……。」
「天の川でーす!!!」
流石に空一面にとまでは行かないが、それでもぽっかりと大きく空いた雲の間からは、美しい天の川が覗いていた。
織姫は歓声を上げながら喜び、自分はこの奇跡に声も無く空を見上げた。
「……織姫と彦星は、会えたですかねー。」
「うん。会えたよ。」
「…そうですか。なら、良かったで~す。」
「織姫君の願いが天に届いたんだよ。」
天の川に見とれながらそう言うと、織姫は少し考えてから首を横に振った。
「『私の願い』じゃなくて、『私達の願い』……でしょ?」
「……そうだったね。」
悪戯っぽく笑う織姫に、こちらも自然と笑顔が零れた。
そのままベンチで暫く星を見ていると、不意に織姫が「あっ!」と声を上げて立ち上がった。
「どうしたんだい?」
「忘れてました!!短冊を飾らなくちゃいけなかったですね。」
「え?昨日の内に飾ったんじゃないのか?」
至極当然な疑問を返すと、織姫は呆れたような表情でチッチッチッと指を振った。
「昨日は昨日。今日は今日でーす!ほら、さっさと笹に飾るですよ!」
織姫はスカートのポケットに手を突っ込んでローズピンクの短冊を取り出した。
既に願い事は書かれてあるらしく、早速笹に結ぼうとしている。
まさかそんな事を言い出すとは思っていなかった………というよりむしろ見回りの途中だったので、当然自分は短冊など持っていない。
メモとペン位はあるが結びつける紐も無いので、大人しく織姫が結び終えるのを見ている事にした。
紐を結ぶのなどすぐ終わるだろうと思っていたが、何故か織姫は背伸びをしながら悪戦苦闘している様子。
必死に手を伸ばして高い位置に結ぼうとしているが、手元が見えない分上手く結べないらしい。
「そんな高い位置に結ばないで、もっと下の方に結んだら?」
「何言ってるですか。下の方に吊るして天の織姫と彦星が短冊が見えなくて願いを叶えてくれなかったらどうするですか!今回の天の川が出てきたのは私達の努力があってこそなんですから、私達の願いが真っ先に叶えられるべきでしょー?」
だから高い位置に結ぶのだと断言したが、どう頑張ってもカンナの短冊よりも低い位置にしか届いていない。
けれど、台を探して急いで戻ってくるのも大変だし時間も掛かる。
(これで12時が過ぎて七夕が終わったら織姫君もがっかりするだろうし………)
そんな事を考えていると、織姫は諦めたように溜息をついた。
「うぅ、やっぱカンナさんの短冊より高く結ぶのは無理ですか。仕方ないですねー、じゃあこの辺に……」
「待って。」
「はい?…っ、きゃあっ!!」
近くの笹の枝に短冊を結ぼうとするのを遮って、俺は腕に座らせるように彼女を抱え上げる。
身体が不安定にならないようにもう片方の腕で背中を支え、安心させるように微笑むと、織姫の顔が何故か赤くなった。
「え?あ、あの、中尉さん?!」
「織姫君……。」
「は、はい…。」
「…これで、一番高い位置に結べるだろ?」
「……はい…って、え??高い位置?」
織姫はキョトンと目を丸くしてから、辺りを見渡した。
そこが、俺の言った通り他の短冊が飾られていない事を確認したようだが、織姫は何故か赤い顔を更に真っ赤にしてしまった。
「織姫君?」
「な、何でもないでーす!!」
どうかしたのだろうかと下から顔を覗き込もうとしたが、それを避けるように顔を背けられたので、表情は窺い知れなかった。
それでもジッと様子を見ていると、ペシンと額を叩かれた。
「何でもないですってば!それより、落ちないようにちゃんと支えてて下さいよね!」
顔を真っ赤にしたまま何でもないと言われても嘘だといっているも同然なのだが、それよりも彼女が怒って暴れないようにしっかりと支えておく方が優先だろう。
大人しく黙って支えてる事に専念すると、織姫は満足したのか手早く笹に紐を結び始めた。
笹から外れないようにきつく紐を結んでいたが、ふと何かが気になったのか手を止めた。
「そういえば中尉さんは、一体何をお願いしたですか?」
「俺?」
「えぇ。」
「…俺の願いは……、世界平和。この帝都だけじゃなくて、巴里や、他の世界も平和でありますように……って。」
帝都の皆も、巴里の皆も、他の国に暮らしている人々も。
戦って傷付かないように。敵の脅威に怯えないように。
そんな願いを短冊に託した。
それを聞くと、織姫は納得したように一つ頷いた。
「相っ変わらず、中尉さんは真面目ですねー。でも、中尉さんらしいです。」
「そういう織姫君は?」
「私ですかー?私は新しい靴と、ドレスと、バック。あと、楽譜が欲しいって書いたで~す!」
もしかして、クリスマスと混同しているんじゃないかと思える願い事の内容に、俺は思わず苦笑いになってしまった。
だが、ふと気付く。
「あれ?もう一つの願いは?」
抱えている織姫君の身体が、何故かピクリと小さく動いた。
動揺したように感じたが、何か言い辛い事でも聞いただろうか?
「も、もう一つの願いって?」
「だって、昨日も織姫君は短冊を書いて飾ってただろ?その短冊と、今飾っている短冊と2つあるんだから、願い事も2つじゃないのか?」
「え~っと、まぁ、そうですけど。」
「そっちにはなんて書いたんだい?」
織姫は、「う~~~~ん」と唸るような声を上げながら悩んでいたが、結局「内緒です」と言われてしまった。
「良いじゃないか、言ってくれても。」
「言ってしまって願いが叶いにくくなってしまったら嫌ですから。」
(………俺は願いを言ったし、織姫君も一つ願い事を言ったんだけどな…。)
少しぼやきたい気持はあるが、大切な願いだから言わずに大切にしたいという気持ちも分からないでもない。
諦めて短冊の紐を笹にグルグル巻きにして満足した織姫を降ろすと、織姫は甘えるように腕に手を回してから
「願いが叶うといいですねー。」と、楽しげに笑った。
地面に降りた織姫は腕を絡めた状態のまま、俺のを見上げて問い掛けた。
「ねぇ、中尉さん。私と年に一度しか会えなくなっても、ずっと私の事を思ってくれますか?」
織姫が突然そんな事を尋ねてきたので、何事かと思ってまじまじと織姫を見ると、その表情は期待と少しの不安を混ぜたような感じで俺の解答を待っている。
(一年に一度しか会えない?)
その時の事を想像してみようと暫く考えてみても中々浮かばない。
そして、ようやく一つの答えを出した。
「……さぁ、どうだろう。分からないな。」
そう答えると、織姫は驚いたように目を見開いた。
てっきり「YES」という返事が返ってくると信じて疑わなかったのだろう。
「な、何でですか中尉さんっ!!どういうことですか?!」
「落ち着いて織姫君。」
「これが落ち着いてられますかっ!!」
「だから、待ってくれって。まだ続きがあるんだから。」
怒り狂う寸前の織姫を宥めると、なら続きを言ってみろという感じで睨まれたので、思わず苦笑が浮かんだ。
「だって、地上の織姫と彦星は常に一緒なんだろ?離れ離れになるなんて事は、ならないし、させないよ。」
離れ離れになることを想像しても、浮かんでは来なかった。
だから、それが答えなのだろうと自分の中で思ったのだ。
そう言って笑うと、織姫はポカンとしてから、蕩けるように、擽ったそうに笑って回した腕に力を込めた。
「願い事、もう叶っちゃいましたねー。」
「ん?どうかしたのかい?」
「ふふ、何でもないで~す。」
声が小さくて聞こえなかったのだが、聞いても楽しそうに笑うだけで答えてはくれなさそうだ。
(何て言ったんだろう?)
なにやら今日は、秘密にされる事が多い気がする。だが、昔姉にも言われたが女性とは謎が多いものなのだろうと思って諦める。
何を言ったのかはまだ気になるが、彼女の幸せそうな笑顔が見れたから見れたからよしとしよう。
十二時の鐘が鳴って七夕が終わりを告げても、2人は離れることなく星を見つづけた。
寄り添う二人の後ろで、「中尉さんとずっと一緒にいられますように」と書かれた短冊が、星の光を浴びながら風に揺れていた。
大神×レニ
七夕のお話
蒼作
空は晴天。
もう、夏の陽射しへと変わった太陽が我が物顔で大地を照らしている。
これだけ機嫌の良い空だ。夜は確実に晴れであろう。
7月7日。
そう、今日は七夕。そして織姫の誕生日。
イベント好きの花組その他のメンバーは朝から張り切って夜のパーティーの準備を始めていた為、
午後に入るか否か辺りで準備を終えてしまい、今は個々の時間を過ごしていた。
そんな午後の一時。
中庭のベンチにレニの姿があった。
膝にフントの頭を乗せ、その頭を撫でながら、時に空を見上げ、時にパーティーの準備が整った中庭を見つめ、浮かない顔で物思いに耽っている。
「………」
レニは、空を見上げていた顔を下ろし、地面を見つめた。
そんなレニを上目使いに眺めていたフントが不意に顔を上げる。レニはそれに気付かない。
「レニ?どうしたんだい?」
背後から優しく、そしてどこか気遣う声が聞こえた。
聞きなれたその声に、はっ、と我に返ったレニは慌ててその声が聞こえた方へと顔を向ける。
フントが尻尾を振りながらワンと鳴いた。
「た、隊長」
「やっぱり。何だか浮かない顔をしてるね?」
大神は小さな微笑みを浮かべながら、隣いいかい?と訪ねてからレニの隣へと腰を下ろした。
「何か、悩み事かい?さっきまでは元気そうだったのに」
パーティーの準備をしていた時のレニを思い出しながら、大神はレニの顔を覗き込みつつフントの頭を撫でる。
「え…、その…」
レニは視線を彷徨わせてから、大神の優しげな視線から顔を反らした。
暫く二人は黙ったまま。レニは俯いてしまい、しかし大神はそんなレニを促すことはしなかった。
「…隊長」
先に口を開いたのはレニだった。
「ん?」
「ボクは、欲張りなのかな?」
レニは顔をあげると大神を見遣った。大神は、空を穏やかに見上げていた。レニも釣られるように空を上見上げる。
「ボク…、願い事が二つあるんだ」
ほぅっと息をついて眩しそうに瞳を細める。
大神は、顔を下ろしレニを見つめる。驚いた様に。
「七夕の願い事?」
「……うん」
頷けば、また俯いてしまうレニを大神は愛しそうに見つめた。
「別にさ、二つぐらいなら大丈夫だと思うよ?」
大神はレニの頭へ手を延ばし、優しく撫でた。
レニは擽ったそうに小さく笑ってから、大神を見上げる。
「そりゃ、10個や20個もあったらちょっとあれだけど…」
そうしてクスクスと笑いながら。
「それに、実は俺。願い事が三つもあるんだ。しかも、もう短冊に書いちゃって、後は笹に吊すだけ」
俺の方が欲張りだねと大神は、大きく笑った。
「そっ!そんな事ないっ」
レニはふるふると首を振って大神の服を掴む。
大神は微笑んでからレニを優しく抱きしめた。
「それじゃあ、レニもそんな事ない。ね?」
ぽんぽんとレニの背を優しく叩く。
「でも……ボクの願い。もう、叶ってるのがあるんだ。これ以上何か望んでは……」
ぎゅっと大神の服を掴んだまま、レニは大神の胸へと額を押し付ける。
「レニ、レニ。良いんだよ。キミが何かを望んでも、誰も怒らないし、誰も咎めたりしないから。望んで。織姫と彦星がキミの願いを叶えられないなら、俺が叶えてあげるから」
レニの背をそっと撫でてやりながら、大神はレニの耳元で囁く。
「皆もさ、レニと同じくらい願い事を持ってくるよ。そして、笑い合いながら、笹にその願いを吊るすんだ。レニが気にする事は何も無いんだよ。さあ、折角の七夕。折角の織姫君の誕生日。楽しく過ごそ。笑顔で居ないと、織姫君が怒るぞ?」
「うん」
レニは、小さく頷いて大神の胸に擦り寄って顔を隠した。
頬が紅くなっている事と、嬉しくて溢れ出た涙を隠す為に。レニの表情にはもう、陰はなくなっていた。
時が経ち、夜になった。
パーティー会場の中庭のテーブルには所狭しと料理や飲み物、お菓子等々が並び、勿論バースデーケーキもある。
それぞれは浴衣を身に纏い、今日この日、その人を祝っていた。
笹が風に揺れる。吊り下げられた飾りや皆の願いが書き込まれた短冊も、葉に擦れ小さな合唱を奏でている。
何時しか、パーティーも終盤となりそろそろ御開になる頃合い。
片付けは明日と満場一致になり、各々が部屋へと戻って行く。
数名は、まだ部屋で少し飲もうとか、もう少し空の天の川と織姫と彦星を見て行くと言ってはパーティー会場から離れていった。
人の姿がもうない会場の中央。笹がその身を堂々と晒している。その根元に小さな人影。
レニが、其処にいた。
周囲を見回してから、こっそりと取り出す短冊一つ。
葉が生い茂り、そんな所に吊るしたら文字が見えないであろう其処に、その短冊を吊るした。
二つの願いの内一つ。それは、皆の前では気恥ずかしく、見られるのもちょっと躊躇い、吊るせなかった一枚。
短冊の文字を読み返し、ちょっと満足そうに頷いた。
「レニ?」
突然掛けられた声に、びくりと身体を震わせ慌てて振り返る。
「た、隊長っ」
何だか、朝と似たような反応を返してしまった。一つだけ違うのは、その表情に陰りが無い事。その代わりに、頬が軽く紅いが、夜の暗闇の中。星明りが在るとは言え、それは気取られずに。
「見回り?」
気を落ち着かせてから、大神へと歩み寄り尋ねた。
大神は、そうだよと頷いてから笹へと視線を向ける。
「短冊を吊るしてたのかい?」
「うん。あっ、み、見ないでね?隊長!」
頷いてから、しまったとばかりにわたわたと慌てるレニを笑顔で見ながら大神は笹から視線を外した。
「わかったよ」
そうして、ゆっくりと歩き出した。その後をレニも何とはなしに追って行く。
「見回りは、此処で終わり?」
「あぁ。戸締りを確認してからと思ってね。そしたら、レニを見つけたんだ」
何時も、腰を下ろすベンチへ辿り着けば、大神はゆっくりとそれに腰を下ろす。そして、手を伸ばしレニもと促す。
何時もと違い、浴衣を着ている所為かなんだか、こう言っては変かもしれないが大神は色っぽく見えた。襟から覗く素肌は、引き締まりその人の強さを感じさせる。
レニは、差し伸ばされた手を取って大神の隣へと座った。
「願い事、叶うと良いね」
大神がにっこりと微笑んだ。
「うん」
レニも、笑みを浮かべて頷く。
「もし叶わなかったら、俺に言ってね。叶えてあげるから」
不意に腕を伸ばし、レニの前髪を掬う。
「う、うん。隊長も、言ってね。ボクも隊長の願いを叶えてあげるからっ」
「あぁ、ありがとう。レニ」
レニの前髪を掻き上げ、大神はレニのおでこにキスを落とした。
レニの顔は真っ赤に染まる。
「とりあえず、朝言ってた願いとは違うんだけど……もう暫く一緒に居てくれるかい?」
「うん」
そうして、二人は空を見上げた。
空に広がるのは星の海。
でも、今日の主役は天の川。そして、織姫の彦星。
もう暫く、せめて今日が終わるまでは、この些細な願いを叶えて欲しい。
大神とレニは、そう星に願った。
大神×紅蘭
誕生日記念、初春のお話
「花舞う場所への」に続きます。
蒼作
コンコン――
廊下に静かなノック音が響く。
「紅蘭居るかい?大神だけど」
部屋の前、律儀に名を告げて部屋の主の存在を求めるが、暫し待った後も返事は無かった。
大神は軽く頭を掻いてから、もう一度扉をノックする。
コンコン――
やはり、返事は無い。
「寝てる訳じゃないか。格納庫かな?」
部屋の主が居ない事を確認すれば、他に何処に居るのか見当をつけて大神は歩き出した。
静かな足音と共に、廊下を歩む。鍛えられた強靭な四肢が靴音を静かな物にさせているのだろう。彼は見た目以上に鍛え上げられた身体を持っているのだ。毎日欠かさない修練や戦闘訓練がそれを保っているのだろう。
エレベーターに乗り地下を目指す。
ごうんごうんと動くエレベーターの音を耳に目的の階に着く合間、大神は瞳を伏せた。
チン――
到着音と共に、扉が開く。
淀みの無い足取りで、大神は格納庫内へと向かった。
カチャリ ガチャ チャキ
光武の下から金属の擦れ合う音がする。上半身を光武の下へと押し込み、紅蘭が光武の整備をしていた。
「ありゃ?なんや、こないな所の塗料が剥げとるやないか。後で塗っとかんとなぁ」
ぶつぶつと呟きながら、工具箱へと手を伸ばした。指先が工具箱の淵を掴むが、引っ張り寄せるのが上手く行かず、逆に工具箱を遠ざけてしまった。
あちゃーと顔を顰める紅蘭の耳に、コツコツと床を踏みしめる靴音が聞こえた。
これはラッキーとばかりに紅蘭は声を上げる。
「すんまへんけど、誰か工具箱ちょっとこっちへ押してくれへんか?」
コツリ。足音が止まった。どうやら、此方の声が聞こえたのだろう、工具箱がス――と手元に戻ってきた。
「恩にきるわぁ」
礼を言いながら、工具箱から目的の工具を取り出す。
光武に手をかける前に、ふと首を傾げる。去って行く足音が聞こえないのだ。疑問に思い顔を出そうと軽く動いてみる。と、其処には大神が居た。
「なんや、大神はんやったんやね。すんまへん、なにやら顎でつこうてもうて」
にこりと笑みを零す紅蘭に大神も笑みを返す。
「いや、全然構わないよ。それより、ちょっと用があるんだけどいいかい?」
「用?なんの用なん?」
紅蘭は完全に手を止めて、光武の下から這い出てくる。そうして、大神を見上げた。
「ちょっと、一緒に出掛けたいんだけど構わないかい?いや、忙しいなら、今度で構わないんだけど」
頬を軽く掻きながら、大神はちょっと照れ臭そうに訪ねた。そんな大神の仕草に紅蘭は小首を傾げ、一度光武を見上げた。
「かまへんけど、もうちょっと待ってもらえんやろか?もうちょっとで、この子の整備終わるんや」
そう言って、紅蘭は愛しそうに光武の足を撫でた。
「あ、いや、明日でも構わないんだ。暇な時声を掛けてくれ。その時出かけよう」
わたわたと、両手を軽く振りながら。
「せやから、後ちょっと言うてんねん。待てへん?」
大神のそんな仕草を見て、思わず紅蘭はくすくすと笑ってしまう。
紅蘭に笑われてしまった大神は、どこかバツが悪そうに視線を外す。その頬が少し赤い所為か何だかその仕草が子供っぽくて、紅蘭はもう一度軽く笑ってしまった。
「じゃ、じゃぁあと少しなんだろ?俺は、ロビーで待ってるから用意が出来たらきてくれ」
そう言って足早に去ろうとする大神の背を紅蘭は慌てて声をかけて止めた。
「待ちぃな、大神はん。長々とロビーで待たすんのも悪いやんか。そうやね、あと一時間後にロビーで待ち合わせしよ」
「え?あぁ、後一時間か。分かったよ、じゃぁその時間で」
大神は、懐中時計で時間を確めてからにっこりと微笑み紅蘭の邪魔をしては悪いと、今度はゆっくりとだが格納庫を後にした。
そんな優しげな大神の笑みに、我知らず頬を軽く染めながら紅蘭はぐっと拳を握りよっしゃはよ片付けよと、光武の下へと潜り込む。
「せやけど、出かけるって何処行くんやろね?」
なんて光武に話し掛けながら、紅蘭は手を素早くけれど丁寧に動かし始めた。
大帝國劇場のロビー。
一時間経つより少し前に大神は其処に居た。思わず、何時もの居るモギリ場所へと立っているのは何時もの癖。
今日は、公演の無い日故、ロビーに人の姿は無い。何時もなら休みでも売店を開けているのだが、今日はそれもお休みで何時もその売店にいててきぱきと動き回る椿の姿も無い。
「ちょっと、早く来すぎたかな?」
なんて、懐中時計を見ながら大神は小さく零した。その格好は、何時ものモギリ服だ。着慣れている所為か、普段からモギリ服を着用している。最近では、出かけるときももっぱらこの服だ。ので、違和感は無い。
暫し、ぼんやりとロビーを眺めながら紅欄がやってくるのを待つ。そんな時でも、思わず思い浮かべるのは街の平和や光武の訓練、先の戦闘状況など。一種の職業病かもしれない。司令になったからには、大切な事なのだけれど。休む間も無い様な気がする。が、本人はきっそそれに気付いていない。
そんな事を考えている内、耳にぱたぱたと駆けて来る足音と気配を感じた。泳がせていた視線を戻し、廊下の方へとその視線を投げた。
「いやー、すんまへん。大神はん。ちょっと遅刻してもうて」
冬服のチャイナ服に身を包んだ紅蘭が足早に此方へとやってくる。被っているチャイナ帽を片手で押さえながら。
「大丈夫、俺も今来た所さ」
そう言って紅蘭を安心させてやりながら、手を軽く振る。
「そうなん?それならよかった」
大神のそんな優しい嘘に気付いているのか、紅蘭は柔らかい笑みを浮かべた。
「じゃ、行こうか」
大神も、にっこりと微笑んでゆっくりと歩き出す。
空は晴天。雲一つ無い。今日は良い天気だった。
暫く、他愛の無い会話を交わしながら、大神が先導して歩く。紅蘭もそれに異論を唱える事無く、その後に続く。完全に大神を信頼した歩みで。そして、その2人の歩みは紅蘭の歩みに合わせているのか、ゆっくりした物だった。
路地に入り込み、民家が並ぶ細い道を行きながら二人は会話に花を咲かせる。
「良い天気やね。こういう日はやっぱ、外に出た方が気持ちええね」
うーんと背伸びをしながら器用に歩く紅蘭を見て、大神は軽く笑いながら同意する。
「そうだな。こういう日はのんびりするのもいいよな」
『中庭の芝の上で寝転んだりっ』
2人の声が重なって響いた。そうして、2人で笑いあう。
そうこうしている内に、紅蘭の鼻腔を花の香が擽った。
「ん?なんや、良い匂いやね?何やったっけ?」
うむむと小首を傾げながら紅蘭はその香の元を必至に思い出そうとする。大神はそんな紅蘭を見つつ、瞳を細めて笑んだが助け舟を出そうとはしなかった。
香がだんだんと強くなってくる。
そうして、入り組んだ路地の一角を曲がった時、視界一杯に広がったのは 梅の華 。
「ふわぁ~、絶景やね」
思わず、ぽかんと口を開けてしまう。
視界に広がる白やピンク。紅蘭は眼をぱちくりさせた。
「どうだい?綺麗だろ。朝の走りこみで最近見つけたんだ。これを、どうしてもキミに見せたくてね」
照れながら大神も梅の華へと視線を向けた。
視覚と嗅覚を刺激するその存在を暫し2人は無言で見つめる。
「はぁ、すごいわぁ。あ、でもなんでなん?」
素朴な疑問と共に、やっと梅から視線を外し紅蘭は大神を見上げた。
大神は、ちらりと紅蘭を見下ろせば視線を外しを数回繰り返し、たはははと笑った。
「いや、さ。その誕生日プレゼント。今年はさ、皆で一つのプレゼントだったろ?でもさ、個人的に何か一つ送りたくて……」
がしがしと頭を掻きながら大神はそっぽを向いてしまう。どう見ても照れ隠しだ。
それが嬉しくて、紅蘭は自然と笑みを浮かべた。
「物は渡したし、俺もお金に余裕があるわけじゃなかったし…。それに、紅蘭は結構格納庫とか部屋に篭ったりが多いだろ?そこから引っ張り出すのもかねてさ」
視線を下ろした大神の顔は、やはり頬が軽く染まっていたけど、優しくて力強い笑みだった。
「大神はんらしいね。でも、うれしいわぁ。ありがと、大神はんっ」
そうして、紅蘭は大神の腕に抱きついた。
おっと、と声を零して紅蘭を片腕で受け止める。そんな言葉を口にするくせに微動だにせずしっかりと受け止めてくれる大神の腕が、紅蘭はとても嬉しかった。
「もう暫く、見てたいんや。そやから、ちゃんと付き合ってぇな」
にかっと笑みを浮かべる紅蘭に了解と頷いた大神は視線を梅の華へと戻した。
2人して、その梅の華々に見惚れる。
空は晴天、雲一つ無い。そんな青空に栄える梅の華はとても美しかった。
大神×すみれ
すみれ引退後、しばらく経ってからのお話
黄緑作
「まぁ~ったく、こんな所で寝てるなんて。中尉さんも駄目ですねー。」
「織姫。隊長も疲れてるんだよ。少し休ませてあげよう?」
「え~?つまらないでーす!!」
そんな話声が聞こえた気がして、ふと意識を覚醒させた。すると、目の前に2人の少女と目が合う。
「レニ。織姫くん。」
「チャオ!中尉さん。起きたみたいですね。」
「この場合は『起きた』じゃなくて『起こした』だよ。……隊長、大丈夫?疲れているなら部屋で休んだ方がいいよ?」
「いや、大丈夫だが……」
そう言われて辺りを見渡すと、舞台で練習をしている皆が見える。どうやら舞台袖でうたた寝をしてしまったらしい。
「ごめん。少し寝てたみたいだね。」
「んもぅ。私とレニの出番はもう終わっちゃいましたよー?」
膨れっ面の織姫を宥めるようにもう一度謝り、舞台に目を向ける。
練習であろうとも、歌い、踊っている姿はいつ見ても華やかだ。
見ていると、こちらまで楽しい気分になる。
つい寝ていたのが勿体無いほどだ。
そんな事を考えながら舞台を見ていると、ボーン……ボーン……と、練習の終わりを告げる時計の音が舞台に鳴り響き、マリアが皆に声をかけて練習は終了した。
「よぉーっし!!練習も終わったし、飯にするぞ!!」
「わーい!!おっ腹がすいたー!今日のごっ飯は、なんだろう?!」
元気に食堂へ走っていくカンナとアイリス。
「おつかれさーん!!今日もマリアはんは格好よかったなー。椿ちゃんが見たらメロメロになるんやないの?」
「止めて頂戴、紅蘭。…………少し、冗談にならないから。」
「ふふ、椿ちゃんはマリアさんの大ファンですものね。」
笑いながら舞台から戻ってくる紅蘭とマリアとさくらくん。
「それじゃあ、僕たちも行こうか。」
「そうですねー。早く行かないとカンナさんに全部ご飯食べられちゃいますからねー。」
一人一人にお疲れ様と伝えて自分もそれに続こうと思ったが、ふと足を止める。
振り返ると、舞台にはまだスポットライトを浴びたままセンターで立っているすみれくんが居た。
けれど彼女にいつもの笑顔は無く、どこか寂しげに客席を見ていた。いつもはスポットライトを浴びて誰よりも輝いている彼女なのに、今はどうだろう。
何故か見ていると不安になる。
一度後ろを振り向いてもう皆は食堂へ行ってしまったことを確認してから、もう一度呼ぶ。
なのにすみれくんは一向に振り向かない。
それがまた、不安を増徴させる。
「すみれくん。皆食堂に行ってるけれど、行かないのかい?」
「…………」
じっと客席を見たまま振り向きもしない彼女に、「何か考え事でもあるのだろうか」、「そっとしておいた方が良いのだろうか」と考える。
考えながらじっとすみれくんの方をみていたら、ふと、すみれくんに当たっていたスポットライトがの光がゆっくりと落ちていく事に気がついた。
誰かが消したにしては、光が一気に落ちない事に違和感を感じて周りを見てみるが、誰かがいる気配は無い。
首を傾げてからもう一度視線をすみれくんへ戻すと、また違和感を感じた。
スポットライトを浴びているすみれくんの影がやけに濃い。
光もだんだんと落ちてきているから影はあまり濃くない筈なのに。
そして、その影の濃さと反比例するかのように彼女の存在が薄くなっていくように見える。
(まるで、闇に飲み込まれてるみたいだ。)
自分のその考えに鳥肌が立った。
不安を拭い去りたくて彼女に近づこうと思って足を進めようと思ったのに、足が何かに掴まれたかのように動かなかった。
「……………え?」
足元を見てみたが、特に障害物は無い。
なのに、歩こうとしても足が動かなかった。
足が、やたらと重い。まるで鉛でも足につけたようだ。
「すみれくん!」
彼女の名前を呼んで必死に手を伸ばすが、彼女が振り向く事は無い。
ならばと思い、必死に足を動かしてすみれくんへ近づく。
不安と嫌な予感突き動かされて、重い足を何とか彼女の方へ足を進めた。
一歩進むごとに、なぜか身体が重くなっていく。
足が重くて重くて、無理に動かそうとすると足がちぎれるのではないかと思うほど。
けれど、構いはしない。この不安が拭い去られるなら。
ようやくすみれくんの傍に近づいた。
やはり、彼女に落ちた影が濃い。そして、その表情も厳しい。
「すみれくん、どうしたんだ?」
そう尋ねて、細い肩に触れようとした。
「………!?」
しかし、手は肩を通り過ぎて下に落ちた。
「…すみれ、くん?」
もう一度触れようとするが、幻を掴むかのように手がすり抜けた。
その間もだんだん光は落ち、すみれくんの姿は影の部分から溶けるように消えてゆく。
愕然とした気持ちですみれくんを見ると、ようやく彼女は振り返って、何かを諦めたように笑った。
「すみれくん!!」
彼女の存在をと留めるように抱きしめようとするも、腕は虚しく空を掻き抱く。
自分が必死に足掻こうともどうすることもできず、最後に残った髪の一房が消えるまで、ただ見ていることしか出来なかった。
そして、一人舞台に取り残される自分。
「すみれくん…。すみれくん……っ!!」
目を凝らして辺りを探す。
けれど姿は一向に見えない。
声が舞台に響くのみ。
「す、みれ、くん………っ!!」
声が返ってくることは、無い。
「――――――――――――っ!!!!!!!!」
虚しさと無力感に、声も無く叫んだ。
「……………っ、はっ!」
目を覚ますと、見慣れた自分の部屋の天井が見えた。
一瞬頭の中が混乱したが、時間が経つにつれて状況を把握してくる。
(夢、だったのか。)
身体は夢を引き摺るかのように硬直していたが、やがてゆっくりと力が抜けていった。
もう1年以上も経つのに、今でも思い出す。
ずっと悩んでいたすみれくんと、傍に居る事しか出来なかった無力な自分を。
いつもより鈍い動きで着替えを済ませ、身なりを整える。
本来ならかえでさんの元へ向かって一日の予定を聞く事になっているのだが、なんとなく、足がすみれくんの部屋へ向かった。
ドアの前にいくと、前は掛かっていたネームプレートが外されている事が寂しい。
無駄だと思いつつもノックをしてから扉を開けると、がらんとした部屋が姿をあらわす。
もう豪華な照明もベッドも置いていない、無人の部屋。
その主を無くした部屋は、外の空気よりも冷たい空気をしている気がする。
俺は誰も居ない部屋に足を踏み入れて、壁に凭れ掛かって目を瞑る。
彼女と出会って、色々な事があった。
帝都の食堂で、印象が最悪な出会い方をした事。
喧嘩を止めようとして引っ叩かれた事。
カンナと3人で深川に霊力の高い屋敷に調査に向かった事。
溺れているのを助けた事。
シンデレラの話が好きだという事を話した事。
紅茶を入れた事。
お見合いを壊しに行った事。
華やかで印象的な彼女と同じように、思い出もどれもこれも印象強いことばかりだ。
なのに、もう彼女は居ない。
霊力が、無くなってしまったせいで。
彼女の霊力が弱まっている事には、前から気付いていた。
眩いまでの彼女の霊力が何かに蝕まれるかのように弱まっていくのに、気付かない筈が無い。
けれど、どうすることも出来ずにただ見ていることしか出来なかった。
(なにか、してやりたかった。助ける事が出来るなら、助けたかった。)
自分が全ての人を助ける事が出来るとは思っていない。
そんな事はあやめさんの時ですでに思い知っている。
けれど、だからこそ自分の周りの人は大切にしようと、誰一人欠ける事が無いように努力しようと思っていたのに。
(また、居なくなってしまったな……。)
自然と自嘲の笑みが浮かぶ。
誇り高い彼女の事を思い、あえて霊力の事を口にはしなかったが、そのせいで一人で悩み、苦しみ、去る事を決めてしまったすみれくんを思うと後悔が押し寄せた。
「ここに居たのね、大神くん。」
「……かえでさん。」
ゆっくりと目を開けると、かえでさんが心配そうな顔で自分の顔を覗き込んでいた。
「まだ、後悔しているの?」
表情にまで出ていた事に苦笑しながら、誤魔化すように「心配をかけてすみません」とだけ答えた。
「霊力はまだ不明な点が多い未知の物なのよ。すみれの霊力を取り戻す方法は、私たちには無かったわ。………だから、自分を責めないで。」
かえでさんの言葉に俺は頷く。
確かに、霊力を取り戻す方法など無いと分かっていても、それでも自分に出来る事は合ったのではないかと思ってしまう。
「そうかもしれません。ただ、俺が諦めきれないだけです。……情けないですね。」
「大神くん……。」
かえでさんの表情が辛そうに歪む。
そんなに自分の表情は痛々しいのだろうか。
(また心配を、かけてしまったな。)
その事を申し訳ないと思いながら、かえでさんを部屋に出るように促した。
暖房もつかないこの部屋はかなり冷える。
このままではかえでさんが風邪を引いてしまうかもしれない。
「ねぇ、大神くん。進む道が同じじゃなくても、遠く離れていても、私達の気持ちはずっと傍にある。それを、忘れちゃ駄目よ。」
部屋を去る際に、かえでさんは俺の目を見ながらそう伝えた。
今日の予定は、新しい光武の開発についての会議。
紐育のスターのように空中戦にも対応できるよう、変形型の光武の製作についてを話し合う事になっている。
会議の場所は作戦司令室になっているが、技術者達が来るまでまだ時間がある。
『顔色があまりよくないわ。大神司令は少し休んで気分転換でもして来たら?資料は、私が用意しておくから。』
かえでさんのその申し出に甘えて、とりあえずこの食堂で食事を取った後、何をする訳でもなくぼんやりとしている。
「気持ちは傍にある……か。」
かえでさんの言葉を反芻しながら、俺は食堂の椅子の背もたれに体を預けた。
彼女はどんな気持ちだったのだろうか。
決断を後悔していないだろうか。
「気持ちは傍にある」と言われたのに、そんなことすら俺には分からない。
いつか会う事が出来たなら、聞くことができるだろうか。
あの時の、彼女の気持ちを。でも、もしそれで彼女を傷つけたら……?
カラン……
考えに没頭していたら、後ろで何か落ちた音が聞こえた。
誰か他に来ていたのだろうか。そんな事をぼんやりと思っていると、後ろに居るであろう人に声をかけられた。
「ちょっと、そこの貴方。」
聞いたことがある綺麗な声。
よく覚えている。期待を込めて、ゆっくりと後ろを振り向いた。
「自分…ですか?」
「他に誰が居るというの?馬鹿面してないでとっとといらっしゃい。」
あまりの言われように苦笑するが、彼女がからかうような楽しそうな視線で俺を見てくるので、彼女に付き合うことにした。
この先の展開を予想して、あの時と同じように新しいフォークを持って彼女に近づく。
「どうぞ。」
「まぁ、ありがとう。気が利いていらっしゃるのね。」
新しいフォークを受け取って、彼女は機嫌よく笑った。
最初に出会った頃の出来事を繰り返したような再会に、思わず俺も笑顔が零れた。
「久しぶりだね………、すみれくん。」
「お久しぶりですわ、大神司令。」
「まさか、すみれくんが来るとは思わなかったよ。かえでさんからも、何も聞いていなかったし。」
「それは当然ですわ。私が驚かそうと思って連絡をしなかったんですもの。」
よく考えれば、新しい光武の開発となれば技術者だけではなく、神崎財閥も関わってくる筈だ。
それでも、よもやすみれくんが来るとは思わなかったが。悪戯が成功した事に満足げに笑ってから、すみれくんは俺に向かって指を差した。
「それより、何なんですの?先ほどまでの辛気臭い顔は。折角の良い男が台無しですわよ?」
「そんな暗い表情、してたかな。」
「えぇ、それはもう。司令の立場から、隊員である皆さんに相談する事も難しいでしょうから、私が相談を聞いてあげてもよろしくてよ?」
「別に、悩みがあるというわけでは…」
「いえ、あれは悩みがある顔でしたわ。私を誤魔化せると思いまして?」
悩んでいた原因である人物に思いっきり核心をつかれて、思わず視線を逸らす。
本人を目の前に、「君のことで悩んでいた」とは言い辛い。
視線を逸らしたまま黙っていると、すみれくんは寂しげに溜息をついた。
「分かりましたわ、帝国華撃団としての機密もあるでしょう。もう花組では無い私には言えない事もおありですわよね……。」
「違う!」
確かにすみれくんの事で悩んではいたが、それはそういう意味で悩んでいた訳ではない。
「君はずっと俺達の仲間だ。何処にいても、どんな身分になっても。ずっと。」
真剣にその気持ちを伝えると、すみれくんはキョトンとしてから、クスクスと笑い出した。
その反応に、どうして良いか分からなくて名前を呼ぶと、すみれくんは笑いを噛み殺しながら答えた。
「あら、そんな事言われなくても分かっておりましてよ。ちょっと意地悪をしてみたかっただけですわ。歌劇団を抜けた事を盾にするのは少し卑怯でしたけど、司令ともあろうお方がそんなに単純に引っかかってはいけませんわ。司令も、まだまだですわね。」
声高に笑われながら、俺は少しうな垂れだ。
元々駆け引きはあまり得意ではない上に、相手は元トップスタァだ。適う筈が無い。
「まぁ、所詮司令は私には適いっこ無いと言う事はこれでお分かりでしょう?何かあるならさっさと話して下さいませ。」
これは、彼女なりに話しやすくしてくれたのだろうか。
相変わらず分かり難い優しさに内心
「素直じゃない」と思いながらも、尋ねてみる事に決めた。
「すみれくん…」
「なんですの?司令。」
静かに自分を見つめる瞳に、この疑問をぶつけて彼女を傷つけはしないだろうかと一瞬怯むが,それでも疑問を口から押し出した。
「すみれくん。……この歌劇団から離れる時、何を思った?」
「………」
「すまない、不躾だった。」
少し辛そうに細められた目を見てやはり傷つけたかと、話を打ち切ろうとすると、すみれくんが首を左右に振ってそれを制した。
「いえ、結構ですわ。……そうですわね、随分と悩んだ事は確かです。今まで霊力があって当たり前でしたから、それが無くなるという事は身を切られる思いでした。光武に乗って戦う事、華撃団の一員である事、トップスタァである事は私の誇りでしたから。」
「…………」
「でも、この劇場を離れるときは、苦しい気持ちばかりだった訳ではありませんし、ここを離れて神埼重工へ行く決断をした事にも後悔はありません。何も出来ずにここへ残るより、自分にしか出来ない事をやるべきだと思いましたから。」
「すみれくん……」
先ほどまでの悲しみを瞳から拭い去り、真剣な瞳で俺を見据えた。その瞳から、すみれくんがどれだけの決意を持ってそれを選んだかが滲み出てくるようだ。
「……ですから、司令も自分を責めるような事はなさらないで下さい。大神司令は私が悩んでいるときに、傍にいて下さいました。私はそれで十分救われましたわ。」
その言葉に、思わず目を見張る。
「すみれくん…、俺が何に悩んでいたのか、気付いて……」
「私に何か言いたげにしていましたからね。この事かな…と。」
まるでお見通しだと言いたげな笑顔に、俺は諦めたように笑った。
やはり、すみれくんには勝てない。
けれど、それは悪い気分ではなかった。
「大神司令。私たちはお互い離れた所に居ますけれど、目指す物は同じ物でしょう?ですから、辛くないのです。貴方と一緒に、頑張っていると思えますから。」
『ねぇ、大神くん。進む道が同じじゃなくても、遠く離れていても、私達の気持ちはずっと傍にある。それを、忘れちゃ駄目よ』
(あぁ、この事だったんだな。)
かえでさんの台詞をまた思い出す。
そして、目の前のすみれ君の笑顔は曇り一つ無い物で、その表情を見てようやく俺の中のわだかまりが消えていくのを感じた。
「そうか……。なら良かった。君が苦しい選択を取ったのでないなら。今を誇りを持って生きているなら。ずっと、それを心配していたんだ。」
「まったく、ずっとそのことで悩んでらしたのね。あまり悩みすぎると、その内胃に穴があきましてよ?」
「あぁ、そうだな。気を付けるよ。」
顔を見合わせてお互いに暫く笑っていると、食堂の時計がそろそろ会議の時間になろうとしている事に気が付いた。
まだまだ話したいが、それは会議が終わってからにするとしよう。
「すみれくん、そろそろ時間だな。もう皆揃っているころだと思うし。」
「あら、もうそんな時間ですの?では、参りましょうか。」
俺はすみれくんに向かって手を伸ばした。
「お手をどうぞ、お嬢様。」
少し冗談めかしてそんなことを言ってみれば、すみれくんは此方の意図を汲み取って付き合ってくれた。
「あら、ありがとう」
そっと置かれた手を取り、俺はすみれくんの歩調に会うように歩き出す。
すみれくんも優雅な足取りで着いて来る。
俺は思わず笑いを零しそうになったが我慢した。
そうして、俺とすみれくんは作戦司令室への短い道中を共にする。
そう、それは帝都の平和という目標に、互いに近付く様に。
大神×レ二
レニお誕生日記念、クリスマス公演前夜のお話
蒼作
「産まれた喜びの中に」
夜も更けた。
冷たく澄んだ夜空には星が瞬く。息を吐けば白く、その存在を初めて現にさせる。
こんな日はやはり中庭辺りで星空を眺めたいが、明日はクリスマスの特別講演の日。早目に床に着くのが無難であろう。
そう思い、レニは夜の空を眺めていた窓辺から離れカーテンを閉めた。
夜着に着替えようと、上着を脱いでからチョーカーを取り首元のボタンを外す。一個、二個。
コン コン―――
扉を叩く音が聞こえたのはその時だった。
扉を見やり、小さく小首を傾げる。
「はい」
ノック音から一拍遅れた短い返答をかえす。こんな時間に誰が何の用であろう。
あぁ、もしかしたら明日の事かもしれない。
そんな風に短い思考を巡らせながら扉へと向かうと、その向こうから聞こえたのは意外な人物の声だった。
「あの、大神だけど…ちょっといいかな?レニ」
聞きなれた心地良い低音の声。その持ち主、大神一郎がドアの外に居る事に小さく驚きながら、レニはドアを開けた。
「どうしたの?隊長」
目の前に佇む人をきょとんと見上げながらレニは、それでも嬉しそうに小さな笑みを浮かべる。
予期せぬ訪問者だが、それを不快に思うことは無い。それどころか、この人にもう一度会えて嬉しくてたまらない。例え、今日一日普通に顔を見合わせていたとしても。
「いや、さ。その、そう、書類の整理を手伝って欲しいんだ。こんな時間に悪いんだけどさ、えっと、いや、もう寝る時間だし、嫌ならいいんだ。うん。部屋に居る……か…ら………」
ふと、しどろもどろだった口調が止まった。何故か、顔を赤らめている大神にレニはきょとりと小首を傾げる。
「ど―――」
どうしたのか。尋ね様とした所で、その言葉を遮られた。
「あぁっ、いや、何でもない何でもないっ!お、俺は部屋に居るから、もし手伝ってくれるなら、来てくれないかな!そ、それじゃぁっ」
そう言うだけ言って、大神は廊下を足早に去っていった。
何時もの大神らしからぬ挙動に、レニはもう一度小首を傾げた。
それでも、手伝いに行こうと脚を踏み出した時に僅かな隙間風に吹かれ身を振るわせた。流石にこの姿では寒いと思い直し、首元のボタンを直しながら室内へと戻る。上着を羽織り、チョーカーはいいだろうと其れは手にせず廊下へと出た。
そう言えば、言葉を止めた大神の視線が首元にあったのは気のせいだったのだろうかと三度目の首を傾げる仕草をした。
そして、直ぐに大神の部屋の前に辿り着く。
コン コン―――
今度はレニが大神の部屋のドアをノックする。
室内から直ぐに返答があり、どうぞと言うのでレニは静かに扉を開けた。
暖房が灯っているのだろうか、少し暖かい室内に軽くホッと息を吐く。それから暖房よりも暖かい大神の笑顔に釣られてレニも笑顔を浮かべた。
「で、隊長。手伝いって?」
「あぁ、これを、ね?明日朝一に出さなきゃいけないんだよ」
大神は立ち上がり数枚の資料をレニの前のテーブルへと置いた。
「座って、少し説明するから」
そう言って、大神は椅子を引いた。レニは素直にその椅子へと腰を下ろす。
それから、後ろから身を乗り出すような形で大神が説明をし始めた。
何時もより大神の体温が近く、思わずレニの頬に朱が差すが其れは後ろから覗く大神には見られずに済んだようだ。
「と言うわけで、此処の計算と清書をお願いするよ」
「うん、分かった」
説明終えれば、にっこりと笑顔を交し合い2人はそれぞれの作業へと没頭していった。
特に会話も交わす事無く、暫し部屋内にはペンを走らせる音が響くだけ。
どれほどの、というほどの時間かどうか定かではないがそれなりの時間が過ぎた時、外の柱時計の音が鳴った。ボーンボーンと言う音を無意識に数えれば12回か。もう、そんな時間?とレニが顔を上げれば、大神がその音が止むのにあわせてレニの方を向いた。
其処には、酷く優しげな笑顔があった。慈しむような、大切な物を見る目。レニは、そんな大神の笑みに見惚れてしまう。
と、大神が口を開いた。それも、思いがけない言葉だった。
「レニ、誕生日おめでとう」
驚いた。そして、何より嬉しくてたまらず、レニの顔から満面の笑みが零れ落ちた。
「はは、実はその。書類の手伝いは序でレニに最初におめでとうを言いたかったんだ」
照れ臭そうに笑いながら、頭を掻く大神の姿を見ながらレニは心が温かくなるのを感じた。
「あ、ありがとう。隊長。ボク、凄く、嬉しいよ」
ほんのり頬を染めながら、言葉では伝えきれないような思いを大神へ。
花組の皆に祝って貰えるのは凄くうれしい、でも何よりも誰よりも隊長が祝ってくれるのが嬉しくて堪らなかった。
大神は、レニのそんな反応に嬉しそうに微笑みながら机の引出しを開けた。
「これ、誕生日プレゼント。その、恥かしいんで部屋に帰ってから開けてくれないかな?」
たははと笑いながら小さな四角い箱をレニへと渡す。レニは其れを大事そうに壊れ物を扱うような仕草で受け取った。
「ありがとう。ありがとう、隊長っ」
レニが大神に抱きついた。
突然の衝撃。それなのに、大神はレニをしっかりと力強く受け止めて優しく抱き返す。
「喜んでくれて嬉しいよ。さ、そろそろお帰り。もう、遅いしね」
こんな時間まで手伝わせてた俺が言う言葉じゃないけど。何て笑いながら大神はレニの背を優しく撫でた。
「あ、でも書類が……」
「構わないよ。後は俺がやるから。うん、手伝ってくれてありがとう。助かったよ」
レニは分かったと頷いて、ドアを開けた。閉める前に大神へと向き直り。
「おやすみ、隊長」
「ん、おやすみ。レニ」
そう言い交わしてから、レニはドアを閉めた。
暖かい気持ちを心に抱いたまま、レニは自分の部屋へと戻る。あまり足音を立てずに皆を起こさないように廊下を歩みながら。といっても、レニの足音は元々無意識に小さいが。
部屋へと辿り着けば、ドサリとベッドへと腰を下ろした。身体が火照っている、こんな嬉しい事はない。手にした小さな箱を見れば、口元が自然と綻ぶ。
レニは、ゆっくりとその箱のリボンを解いた。蓋を開ければ、大神が何時間も掛けて悩みながら選んだプレゼントが其処にあった。
取り出し、手に乗せる。プレゼントを手に、レニは思う。
あぁ、産まれて来て良かった。ボクは、こんなにも幸せだ。と。
夜が深けて行く。
冬特有の寒さの中に、月と星が浮かぶ。
冷えた空気は凛と澄み、その静寂の中に小さな白い影が振り降りた。
明日は僅かに雪が積もるだろうか――――。
新次郎→昴
最終決戦前の新次郎のお話
黄緑作
自分的補完です。ゲームをやりながら、いつもあの影が出てきた後の新次郎が気になっていたので…
見覚えの無い場所。先ほどまでとは明らかに違う雰囲気。
ぼくは、そんな所に迷い込んでいた。
―――潰えた光―――
先ほどまで死に物狂いで悪念機を倒して、居なくなってしまった仲間を探して階段を上っていたはずだ。
だというのに、今居る所には階段が無い。
いや、語弊があった。階段がというよりむしろ、何も無い空間。
部屋ではない。けれど外でもない。
異空間というのが相応しいかもしれない。
みんなの事を考えながら走っていたら、急に黒い影に包まれた事は覚えている。
あれが原因だろうか?
「寄り道なんて、してる暇は無いのにっ。早く、皆を…………っ!」
強く目を閉じると、みんなの姿が目に浮かぶ。
(ジェミニ、大丈夫かな?下手に動いて迷子になってないかな。早く、会いたいな。)
(サジータさん、無茶してないかな?一人で何でもやろうとする人だから、怪我してなければいいけど…。)
(リカ、泣いてないかな?一人は嫌だって言ってたのに。ずっと、一緒が良いって言ってくれたのに……)
(ダイアナさん、平気かな?戦闘も激しかったし、随分と疲れているはずだ。敵に鉢合わせてないかな?)
(昴さん…………)
そこまで考えて、唇を噛む。
ぼくを信じてくれた人を、こんなぼくの為に命をかけようとしてくれた人を、誰よりも大切な人を。
(昴さん。ぼくが守りますから。だから、だから……)
「待っていて下さい。」
祈りにも似た呟きは、自分の他誰も居ない空間に広がったかと思えたが、背後からそれは遮られた。
『誰を待ってるの?ここには、ぼく以外だれもいないよ?』
「っ?!」
聞き覚えがありすぎる声に後ろを振り向くと、そこには……
「ぼく……?!」
『そう、ぼくは、君だよ。』
そこには自分と同じ形の…けれど影のように真っ黒なスターが居た。
もう一人のぼく―――僕の影がゆっくりと近づいて来るのを見て、ぼくは剣を構えた。
すると、影は一向に剣の柄に手をかけようとせず…。
むしろ、その姿をあざ笑った。
『なんで戦おうとするの?戦っても、意味なんてないのに。』
クスクスと影のスターから聞こえる笑い声に張り詰めた神経を逆撫でされて、剣を握る手に力が入る。
「意味なら有る!!早くココを切り抜けて、皆に会うんだ!!」
そう。ココを切り抜ければ、きっと皆に会える。
どこにいるのかは分からないけれど、きっと会えるとぼくは信じていた。
しかし影は、疑問を表すかのようにスターの目に当たるカメラのライトを点滅させた。
『皆?なにを何を言ってるんだ?さっき言っただろ。ここにはぼく以外居ない。皆………………死んじゃったよ。』
「嘘だっ!僕は信じてる!!生きて帰るって、約束したんだ!!」
そんな言葉、聞きたくない。
ぼくは影の言葉を即座に否定した。
けれど、影は僕の否定を諸共せずぼくに語りつづける。
『君だって見たはずだよ。目の前で消えていく仲間達を。』
「っ!!」
ビクッとぼくの体が震えたのを自分でも感じた。
一瞬にして、消えていったみんなの姿が流れるように脳裏をよぎる。
(…迷うなっ!!)
ぼくはそれを振り払うように頭を思いっきり左右に振り、雑念を払った。
心の迷いは、戦闘では死に繋がる。
自分を強くもっていなければならないのだ。
「それでも、生きてる。どこかで、必ず!ぼくは信じているんだ!!」
信じている。だって、ぼくは戦いの前に皆と約束した。
皆で生きて帰る事。
誰の犠牲もなしに、平和を守る事。
(だから大丈夫。心配する事は……無い!)
心の中で皆との約束を確認して、ぼくは目の前の敵を睨みつけた。
剣を構えたままブースターをふかし、影に一気に詰め寄る。
大刀を勢いをつけて振り下ろすと、影も大刀で防いできた。
『くっ!!』
ただ、力だけならぼくと影は五分と五分かもしれない。
しかし、ブースターの勢いも借りていたぼくの大刀の勢いは影の力を上回っている。
それに気付いた影は、慌てて小太刀も使って防御した。
しかし、ぼくの狙いはそこ。
(今だ!!)
僕は力で押し返して来ようとする影の太刀を流し、ブースターの起動を変えてがら空きになっている影の脇から小太刀で切りつけた。
『ぐぁっ!!』
両腕を塞がれていた影は小太刀をまともにくらい、グラリとよろめいた。
その隙にぼくは再びブースターの起動を変えて、影の方を向いて体制を整える。
『……いつもより、勢いが違うね。何が、君をそこまで駆り立てるの?』
影は衝撃をやり過ごす事が出来たが、それでもダメージが大きかったのか鈍い動きで立ち上がった。
ぼくは影の動きを見逃さないようにジッと見ながら、問いに答えた。
「皆が大切だから。皆を信じているから。だから、ぼくは強くなれる!」
その答えに、影は何故か立ち尽くした後、くぐもった声を漏らした。
「……何だ?」
『くくっ………。ハハ……、あはははははははははははははっ!!!』
「なっ?!何が可笑しい!!」
急に笑い出した影にカッとなってぼくが怒鳴り返すと、影は馬鹿にしたような声でぼくに話し掛けてきた。
『………やっぱり、心なんてあると駄目なんだ。判断力が鈍る。』
「何っ?!」
『信じる…なんて、何を根拠に言ってるの?ただ、現実から目を逸らしたいだけじゃないか?』
「?!」
『皆とした約束に、縋りたいだけじゃないか?』
影の言葉に、思わず鳥肌が立った。
いや、違う。そんなはず無い。
「違う…。そんな事ないっ!!信じてるんだ!!」
『なら、何でぼく等しかココに居ないんだ?皆が無事なら、助けに来てくれる筈だろ?』
咄嗟に、言い返せなかった。
いつも傍にいてくれて、未熟なぼくを助けてくれて、支えてくれて。
一緒に居る事がまるで当たり前かのようだったのに。
今はぼく一人。
何故?何故?なぜ?
それは…………
「違う…っ!違うんだ………!ぼくは……っ」
襲い来る不安から逃れようと俯いていた顔を上げると、影が目の前まで迫っていた事にようやく気付いた。
「うぁっ?!!」
咄嗟に刀を振り下ろすが、それは難なく防がれる。
『戦いの最中に何をボーっとしてるんだ?』
戦いに集中しなくちゃいけないのは分かっている。
けれど、生死すら分からない皆のことを思うと、不安と焦りで剣が鈍ってしまう。
傷を負っている筈なのに影の猛攻は止まず、次第に押され始めて防戦に徹していく。
『さっきから防いでばっかりだね。それじゃぼくには……勝てないよっ!!』
「っ?!」
影が重心を下げたと思ったら、下から刀を振り上げられ、それを防ごうとしたぼくの太刀が弾き飛ばされた。
小太刀だけでは勝敗は目に見えている。
急いでスターに備え付けられた一郎叔父用の太刀を抜こうとするが、時は既に遅かった。
『動かないで。動くと、君の腕が飛ぶよ?』
影の剣先は、スターの腕のつなぎ目部分にヒタリと突きつけられていた。
影の言葉は嘘ではない。ぼくがこの太刀を抜こうとすれば、確実に腕が飛ぶ。
(……僕は、負けたのか?)
目の前に突きつけられた敗北の文字に、僕は何も出来ずに立ち尽くした。
すると、ピピッと電子音がして通信画面に影のスターの搭乗者―――笑みを称えたもう一人のぼく―――が映し出された。
『ようやく諦めてくれたんだね。良かった。ぼくは別に君と戦いたかった訳じゃないからね。……………ただ、真実を告げたかっただけだ。』
「……真…実?」
オウム返しのように繰り返すと、影は笑顔で頷いた。
『そう。もう誰も居ないから、君が頑張って戦う事は無いんだよ……っていう、事実を。』
「やめろっ!!」
『本当は、もう皆いない事を分かっているくせに。』
「もう聞きたくないんだっ!!!」
『可哀想だね。君は、また守れなかったんだよ。大切な人を。』
思い出す、過去の映像。かつての自分。そして彼女。
平和を守る為に。ぼくを守る為に。自らの命を差し出した彼女。
そして、希望を教える僧侶の身であったにもかかわらず、希望を信じきれずに彼女の命を諦めた自分。
『でも、ぼく等は生き残れてよかったね。皆を犠牲にしてでも生きたかったんだろ?』
「え?」
最初、考えに没頭しすぎて影に何を言われたか分からなくて呆然とした。
けれど、ジワリと言われた事が脳に広がって、ぼくは目を見開いた。
「違う、そんなつもりは…」
『違う?何が?前世だって、大切な少女を犠牲にしてまで生き残ったじゃないか。』
犠牲にしたかったわけじゃない。
そこまでしたかったわけじゃない。
それは過去の自分も今の自分も、望んだ事ではなかった。
「それは…」
『それは…何?平和の為に仕方なく?それとも、望んだ事ではなかった…と?でも、結果は変わらないよ。ぼく等は一番大切な少女を犠牲にしたんだ。そして、生き残った。………心は残酷だね。すぐに裏切る。』
「ちが……」
『人の心はすぐ変わる。どんなに大切だ、好きだといっても、最終的には我が身が可愛い。……でも、それに罪の意識を感じる事はないんだ。それが人の本能だから。仕方ないんだ。』
それが真実で現実だよ。そういった影の言葉を否定できなかった。
どう言い繕っても、過去のぼくは彼女の犠牲によって生き残った。そして、今のぼくは皆が居ないのにここに一人で立っている。
これが現実。否定したくても変わる事の無い、現実。
(もう、認めるしかないのかな……。影の言葉を。)
ぼくにはもう言い返すだけの気力も残っていなかった。
鋭い言葉の数々は、心を疲弊させて、希望を闇色に塗り潰していく。
「………ぼくは、守れなかったのか?」
『…うん。』
「………また、何も出来ずに終わったのか?」
『…うん。』
「……………誰も、助ける事は出来なかったのか?」
『……うん。』
目の前が滲んだ。
あぁ、泣きそうだ。
泣きたくない。泣いたら、全てを認めた事になってしまう。
けれど、影の言葉を否定する力も無く。
弱りきった心には、影の言葉は神の断罪のように思えた。
「ぼくは………また……………」
とうとう、ポタリと涙が拳に落ちた。
それをこらえる事も出来ずに、涙は関を切ったように次々とあふれてくる。
もう、これを現実と受け止めるよりしかかった。
(ぼく以外、誰も居ない。何も出来ない未熟なぼくだけが残された…)
その言葉を、認める以外の道は無かった。
「皆、ごめんなさい。ぼくが未熟なせいで……。いつも、皆に守られていたのに。」
隊長である自分について来てくれたのに。皆、大切だったのに。
誰の犠牲も出さないなんて偉そうな事を言っておきながら、結局何も出来なかった。
「昴さん……、ごめんなさい。昴さん…、ごめん、なさい。昴さん。……昴さん。すばるさ…ん」
一番自分の傍で支えてくれた人には、もう謝罪の言葉しか出てこない。
こんなぼくを見たら、昴さんは何て言うだろうか。
情けないと、叱咤してくれるだろうか。それとも、情けないと呆れるだろうか。
(あぁ、でも、もうあの人も居ないんだ。)
昴さんが居ない世界なんて、想像出来ないと言っていたのに、その世界が今ここにある。
『ぼく等のせいじゃない。心なんてあるからいけないんだ。君を信じたが為に、慕ってくれたが為に、命をかけて戦って、死んでいったんだよ。』
影が何か言っている。けれどぼんやりとした頭では、意味を理解する前に砂が零れるようにサラサラと言葉が消えていってしまう。
例え理解できたとしても、ぼくにはそれに構っているほど気力は無い。
だから、影がぼくの機体に溶けて一つになって行くのを見ても、どうする気も起きなかった。
(これが、昴さんが居ない世界……)
『悲しい?辛い?……心を無くせば、楽になれるよ。』
(希望の光が、見えない……)
『疲れたなら、休んでしまえばいい。後は、ぼくに任せて。』
(真っ暗だ………)
『おやすみなさい。』
――――こうしてぼくの意識は、闇に沈んだ。
深い深い、絶望という名の闇の中へ――――――――――。
新次郎×昴
お風呂覗きのお話
蒼作
「うはぁ、いいお湯だった」
湯から上がり、軽く空を見上げる。天井の無い其処からは、夜の空が見て取れる。
程よく火照った身体に、外から吹く風は心地良く、身体と心を涼やかにして行く。
「サニーさんの日本好きも、これだけはいいなぁって思う」
ぐっと両手を伸ばし、背伸びを一つ。
「と、早く上がらないと。折角の身体が冷えちゃうよ」
腕を下ろせば、ぱたぱたと脱衣所へ向かう。
脱衣所の籠の中には、衣服がきちんと畳まれて置いてあり、彼、大河新次郎の几帳面さが伺える。
バスタオルで身体を拭いてから、下着を穿いてズボンを穿いて。Yシャツを手にした時。
―――カタリ―
ふと、物音が聞こえ新次郎は顔を上げた。
「……昴は見た。…風呂上りの大河を……」
其処に居たのは、九条昴。口元に少し開いた扇を当てて、新次郎の事を見つめている。
「わ、わひゃぁっ!?」
驚いた新次郎は真っ赤になって、少女のようにバスタオルで前を隠す。
ズボンも穿いているし何ら問題も無い様な気がするが、当の本人はその事に気付いていない。
しかし、そんな新次郎を何時ものようにからかうでもなく、昴は眉を寄せじっと見やった。
そして、昴は何気なく動く。実に自然な動作な為、新次郎は其れに一瞬気付かない。
そんな風に新次郎に近付いた昴は、新次郎が意味も無く隠すのに使うバスタオルを
捲ると、彼の五輪のアザを見た。
そして、ゆっくりと手を伸ばし指先がその五輪のアザに触れる。
「す、すすす昴さんっ!?」
昴に触れられ、動揺を隠せない新次郎の声は裏返り顔は茹であがったように真っ赤
だ。
そんな新次郎の有様も目に入らないのか、スバルは五輪のアザにしっかりと触れ、
それから何度か指先でなぞる。新次郎は、その昴の動作に背筋をゾクリと振るわせ
た。
五輪のアザ。それは、傷痕に他ならない。そう、信長に射られた傷の痕。
「ああああ、あのっ!すすす昴さんっ!?」
もう一度、意を決して新次郎は昴の名を呼んだ。
すると、ハッと気付いたように昴が顔を上げる。その表情は一瞬、何処か悲しそうで、悔しそうで。
「………昂さん?」
そんな昴の表情に気付いてしまった新次郎は、今までの動揺は掻き消え真剣な表情で昴を見下ろした。そんな表情の昴を見たのは、初めてで。
「な……何でもないよ、大河。そんな顔をするな」
昴はそんな一瞬が無かったかのように、何時ものように薄く微笑んでから、扇で新次郎の鼻を叩いた。
手加減しているとは言え、それは鉄扇。新次郎の鼻の頭が少し赤くなる。
「な、何でもないわけないじゃないですかっ。あんな顔してっ――」
叩かれた鼻の頭を押さえながら、新次郎は昴に詰め寄った。あんな表情してほしくない。他ならぬ新次郎自身の事を見て、そんな顔を。
「何でもないんだ。大河は知らなくていい」
そう言って、昴は不意に新次郎との距離を詰めた。互いの呼気が触れ合うその距離
まで。
「――ッ!!?」
また、わたわたと動揺を露にする新次郎の顔を見上げてから、昴はそっと顔を下ろす。
そして、昴を見下ろす新次郎の目に見えたのは、唇を割って出るピンク色の舌。
昴は、その舌で新次郎の五輪のアザを一舐めする。
「はぅっ!?」
少しざらりとした感触が新次郎の身体を這う。
そして、新次郎は真っ赤になった。顔所か身体全体を赤くして、背をぴんと張り直立不動で固まってしまう。
湯に浸かり上気した肌は更に熱を持ち、今にも何処からか煙を噴出しそうだ。
「……………」
昴は、ゆっくりと新次郎の身体から顔を離し。それから、もう一度新次郎の顔を見上げる。
勝ち誇った笑みを称えた顔で。
「!!!!!!!?」
その昴の笑みを見た瞬間。直立不動だった新次郎は、今度はバネの壊れた玩具のように動き出して、昴の肩を掴み自分から慌てて遠ざける。
俯いたままで新次郎の表情は見えないが、耳まで真っ赤な所為でどんな表情か、昴には手に取るように解ってしまう。
「ぼっ!ぼぼぼぼ、ぼく!もう一度お風呂はいってきますっ!!」
言うが早いか、脱兎の如く駆け出して行く新次郎。
そんな新次郎の反応を予想だにしていなかったのか、昴は少し驚いた表情でその背を見送って。
―――ドボォンッ!!
盛大な水音と水しぶきが舞った。
「…………昴は思った。……少し、やりすぎたと……」
扇で口元を隠しながら、くくくと笑う昴。
これは、着替えを持って来てやらなくてはな。そう思えば、昴は踵を返し脱衣所を後にする。
脱衣所から出て、ふと昴は夜空を見上げた。其処には満月がぽつりと。
「……そう、キミは知らなくていいんだよ。新次郎」
静寂が流れる。そして、幾許かも経たぬ内に昴は小さな苦笑を零して歩き出す。
「着替えといっても、プチミント辺りの衣装しかないな」
小さく微笑んでから。
「仕方ない。今日は、責任持って送っていってあげよう」
実に楽しそうにそう呟けば、足早に衣裳部屋へと向かう。
屋上から昴の姿が消えてから暫し……。
「うぁぁぁ゛~」
風呂場から聞こえる唸り声。
「ぼ、ぼくだって、男なんですからねぇ~」
風呂の中に屈んだまま、出て来れない新次郎の姿がある。
暫くして、プチミントが肩を落として昴と共に帰って行く姿があったとか―――。