空は青空。
風は涼しく、近くで鳥が高く愛らしい声で鳴いている。
そんな和やかな雰囲気の中、孫権は悩んでいた。
詳しくは悩みながら孫家の庭のど真中でしゃがみ込んでいるのだが、声を掛ける者は誰も居ない。
(まぁ、声なんて掛けないよなぁ。)
孫権は改めて自分の姿を見る。
手には細い木の枝。
足元には丸とも三角とも四角ともつかない、孫権自身もよく分からない絵が描いてある。
これをウンウン唸りながら描いていたのだから、さぞかし異様な光景だっただろう。
よほどの猛者で無ければ声などかけない筈だ。
自分でも随分変な光景だと思っているが、仕方無い。
(幸せの形、かぁ……。)
学問所で師に言われた課題は、幸せの形を描けという突飛なものだった。
元々変った課題を出す師ではあったが、今回は輪をかけて変っている。
書物の内容を暗記しろとか言うならまだ何とかしようもあるが、明確な答えが無いものはかえって難しい。
形を模索するのに紙に描くのは勿体ないから、地面の上を木の枝でガリガリと引っ掻く。
でも、明確に何を描きたいか決まっていないので納得がいく筈も無く、描いては消してを繰り返し。
一向に進む気配が見えない。
(確か、皆は…)
課題の参考にする為に学問所の友達の課題を思い返す。
紙に書かれたのは大きな屋敷だったり、武人を表す剣だったり、文官を表す書物だったり。
或いは、感覚的な物として丸などの図形のようなものを描く者も居た。
だが、どれも違う気がする。
孫権はため息をついてまた足元の絵を消した。
すると……
「け~ん~っ!!何やってるんだ?」
「うわぁっ!!」
後ろから声が聞こえたと思ったら、体に強い衝撃と共に重さが伸し掛かった。
思わず地面に接吻をかましそうになったが、それは何とか両手をついて防ぐ。
「兄上……。もう少し手加減して下さい……。」
「ん?おぉ、悪いな。」
後ろを振り返ると、異様な光景をものともせず体当たりをしてきた猛者――兄の孫策がニコニコと笑いながら謝った。
笑っているせいであまり反省しているようには見えないのだが、元々本人に悪気がある訳では無いのだから仕方無いだろう。
それに、孫策が笑うと「仕方無いな」と許してしまう力がある。
それも孫策本人は気付いていない事なのだが。
「で、権は何やってたんだ?」
「課題を出されたので少し考えていたんですけど…、なかなか答えが浮かばなくて。」
「あぁ、あの隣町にある学問所か。あそこの課題面白いよな!!」
孫策は明るく笑って、「懐かしいな。」と呟いた。
書物の朗読や暗記が苦手な孫策は、感覚的な事や直感的な物事の方が得意だ。
今はもう学問所には行っていないが、孫策は師が出す課題は謎かけのようで好きだった。
「今回はどんな課題が出たんだ?」
「今回は難しいですよ。『幸せの形を描け』です。」
「へぇ、面白いな。」
「いや、面白いって、兄上……。」
問い掛けは随分と哲学的な意味を含んでいそうなのに、孫策は面白いと軽く言う。
あまりの軽さに、孫権はガックリと肩を落とした。
そんなに簡単に言われると、必死に悩んでいる孫権がいっそ可哀相だ。
「どうした、権。」
「いや、難しい課題じゃないですか?」
「そうか?決まった答えなんか無いんだから、好きに答えれば良いだろ?」
「それはそうですけど…。」
確かに、孫策が言っている事は正しい。
何を描いたとしても、師に怒られる事は無いだろう。
人の幸せの形なんて人それぞれだし、そもそも問い掛け自体がかなり抽象的なものなのだから。
(……俺も少し考え過ぎかな?)
肩の力が抜けたのを良い事に、少し軽い気持ちで考え直してみる。
哲学的な問いだと思いながら、皆の答えは違うと色々な答えを切り捨てたが、それは逆だ。
ただ、自分の思った形では無いだけで、どれも正解なのだ。
「……兄上が幸せの形はどんな形かって聞かれたら、どんな形を描きますか?」
「俺?」
考えが柔軟な兄の答えなら何か掴めるかもしれないと思い、孫策に枝を渡す。
すると孫策はさほど悩みもせずに、枝を地面に走らせた。
「っし、完成!!」
「………」
ものの数秒で描き上げた孫策の絵を見て、孫権は黙り込んだ。
「どうかしたのか?」
「あ、いえ。」
全く誤魔化しきれて無い誤魔化しの言葉を言いながら、孫権は考える。
『これは何の絵だろう?』………と。
描いてあるのは、棒人間を肉付けしたものに、顔の部分に胡麻みたいな目とフニャリと笑みを象った口が描いてある。
書き手の絵心の無さと、地面の砂利や凹凸が相俟って酷い出来だ。
辛うじて人だという事は分かるが、性別すら判断出来ない。
「どうだ?権。」
「えーっと、そうですね……。」
意見を求められて内心焦った孫権は、一瞬にしてこの課題を考えるより頭を働かせる。
(ど、どうしよう。何か答えないと…!)
孫権は考えた末、しばしの沈黙の後に絞り出すような声で呟いた。
「父上………ですか?」
孫策は父の孫堅をとても尊敬していた。
もしかしたら、父のような武将…という意味で父を描いたのかもしれない。
そう思って恐る恐る孫策を見ながら尋ねると、孫策はニッコリ笑って頷いた。
「そうだな。親父でもある。」
答えを肯定されて孫権はホッと一息つくが、言葉の一部に引っ掛かりを覚えて首を傾げる。
「父上『でも』ある…ですか?」
その言い回しだと、孫堅でもあるが他の何かでもあるという意味合いになる。
不思議に思って孫権は兄を見上げると、孫策は一つ頷く。
「俺の幸せの形は、『人』の形をしているんだ。」
「人?」
おうむ返しに孫権が繰り返すと「そう。人。」と孫策は言った。
いつもの明るい声ではなく、静かで落ち着いた。でも、暖かな声で。
「この人の絵は、親父で、お袋達で、公瑾で、尚香。それで、権。お前でもある。」
孫権は孫策をジッと見つめながら、兄が言った意味を考えた。
(でも、そうすると兄上の幸せは……)
孫権の頭の中に、一つの答えが浮かぶ。
もし、その答えがハズレなら随分と自意識過剰な答えになってしまうが、それでも孫権にはその答えに思えて仕方無い。
「………つまり、俺達自体が兄上の幸せっていう事ですか?」
孫策の目を見ながら、孫権が考えついた答えを口にする。
すると孫策は手を伸ばし、くしゃりと孫権の髪をかき混ぜるように髪を撫ぜながら、とても嬉しそうに笑った。
「正解。」
よく出来ましたと頭を撫でる動作は孫権がもっと幼い頃によくされた行動で、子供扱いされているようで恥ずかしい。
だが、恥ずかしさより頭の上に乗せられた手の温もりが嬉しくて孫権は手を退ける事が出来ない。
「これが俺の形だ。何か参考になったか?」
「…はい。」
尋ねる孫策に孫権は力強く返す。
「そっか。」
孫権のハッキリした答えを聞くと、孫策は撫でていた手を止めてポンポンと軽く頭を叩くと、ゆっくりと立ち上がった。
「兄上?」
「悪い、公瑾と遠乗りの約束してんだ。そろそろ行くな。」
少し困ったように笑う孫策に、孫権は笑顔を引っ込めて一気に顔を引きつらせた。
「す、すみません!随分引き止めてしまってっ!あの、公瑾兄にも謝らないと……!」
「大丈夫だろ。公瑾だって理由話せば怒らないって。」
てっきり孫策は用事が無いと思い込んでいた孫権は、引き止めた申し訳無さに慌てて謝ったが、孫策はひらひらと手を左右に振って気にするなと笑った。
「ま、お前はお前の幸せの形を探せ。じゃ、課題頑張れよ!!」
孫策は大きく手を振ると、厩に向かって走って行った。
孫権は孫策の姿が見えなくなるまで見送ってから、地面に視線を落とす。
そこにはまだ孫策の絵が残っていた。
ハッキリ言うと下手としか言えない絵だが、孫策の言葉を思い出すと、その絵も愛嬌があるように思えてくる。
(幸せの形、か。)
もしかしたら、師は幸せを改めて振り返って欲しくてこんな課題を出したのかもしれない。
争いが絶えなく、幸せを見失いがちな今の時代だからこそ。
(だって、兄上の絵をみるとこんなにも暖かな気持ちになる。)
幸せの形などまだ孫権には分からないけど、兄の絵を見て何かが掴めたような気がした。
「さーて、何を描こうかな。」
孫権は再びしゃがみ込み、枝を手に取る。
最初と何ら変わり無い光景だが、先程よりにも孫権の表情はずっと明るい。
孫権は幸せそうな表情を隠しもせずに、枝を地面に走らせた。
自分の大切な物や、大切な人を思い浮かべながら。