好きでありたい。嫌いになりたい。
気付いて欲しい。気付かれたくない。
変化が欲しい。不変でありたい。
楽になりたい。苦しくても良い。
反する気持ちを抱えたまま、今日も矛盾を繰り返し。
「矛盾無限ループ」
後ろからカタリと何かが倒れる小さな音がしたので振り返ってみれば、親友が机に突っ伏して眠っていた。
先程の音の原因であろう無造作に転がっている筆を拾い、やれやれと息を吐く。
苦手な政務を、嫌そうな顔をしながら、それでも真面目にやっていたのだが…、とうとう限界が来たのだろう。
起こした方が良いか少し悩むが、窓の外を見ると随分と日が沈んでいて、長い間集中していた事に漸く気付く。
(さて、どうするか。)
枕代わりに潰されている伯符の書類を横から見ると、殆ど終わっている。
(……仕方無いな。)
伯符を起こすのも忍びない事だし、こちらも集中力が切れたしまった。
今日の政務は諦め、自分の机を整えてから伯符の隣りに腰掛けた。
伯符の周りには常に人が溢れているが、今日は俺と伯符の他には誰もいない。
久々に、二人だけ。
二人といっても一人は寝ているのだが、沈黙が苦では無かった。
むしろ心地よい位だ。
(相手が伯符だからだろうな。)
そんな考えに呆れ、思わず笑みが零れる。
そんな穏やかな時の中、ただ伯符の寝息だけが響く部屋で、他にやる事も無く。
手持ちぶさたなので、隣りに居る伯符の顔をジッと眺めてみた。
起きている時は鋭い印象を受ける顔が、瞳を閉じている今はどこかあどけない。
昔からそうだ。
寝ている時は無防備。
でもそれは、誰にでもする態度ではない。
気配に敏感な伯符は、他者がいるとすぐ目を覚ます。
心を許している者にしか、寝ている時の接近は許さない。
少し手を伸ばせば触れられる距離にいても目を覚まさないのは、言外に『お前は特別だ』と言われているのと同じ。
だから昔から、課題をやらずに眠ってしまう伯符を起こす事が出来ず、寝過ごした伯符は真っ白な課題を呉夫人にみせては怒られていた。
伯符が「起こしてくれりゃ良かったのに」と恨めしそうに言うのを、「課題をやらずに眠るお前が悪い」と悪態をついて。
本当は、心を許してくれているのが嬉しくて、起こせなかっただけのくせに。
そんな懐かしいことを思い出していると、ふと眠っている伯符の髪が顔にかかり、邪魔そうな事に気付いた。
払ってやるかと、手を伸ばして、止める。
銀の髪が、夕日を浴びて朱色に輝く様が綺麗で。
その表情が、あまりに無防備で。
触れたく、なった。
自覚すると、ドクリと心臓が大きく鳴った気がした。
喉が渇く。
自分の内で、何かが暴れ出しそうだ。
止めた手を再びゆっくり伸ばし、髪を払い、その指でそのまま伯符の頬に触れた。
(暖かい……。)
昔から側に在る、変らない体温。
その暖かさにまた心臓が跳た。
頬を撫で、そのまま指を伯符の口元まで滑らせようとし………ーーー。
(何をやっているんだ俺は。)
唇に触れる寸前で、手を止めた。
触れたいと未練がましく思う心を捩じ伏せて、手をきつく握って戒める。
そうしないと、また手を伸ばしてしまいそうだ。
手に入らないと、分かっているに、それでも。
なんて無様な。
伯符は昔から変らない。
障害を吹き飛ばす強さも、人を引き付ける性格も、不敵な笑顔も。
なのに、その伯符に昔とは違う感情を持ってしまったのは………
(俺が変ったから、だな。)
変わらずに、ただ友として居られたら悩まずに済んだのにと、何度も思った。
だが、どう足掻いても、俺は変わらずにはいられなかっただろう。
例え過去をやり直す事が出来たとしても、同じ道を進んでしまうんだ。きっと。
愚かな行動が軽く予想がついて、自嘲の笑みが零れた。
自己嫌悪の海に浸っていると、ピクリと伯符の指先が動いた。
「ん……?」
流石に触れられた事によって意識が覚醒したのか、伯符がゆっくりと目を覚ます。
だが、まだ眠りを引き摺っているのか眉間に皺を寄せながら辺りを見渡している。
一瞬、触れていた事に気付かれたかとヒヤリとしたが、欠伸を噛み殺しながら伸びをしている姿を見ると、気付いていないらしい。
或いは、気付いたとしてもさほど気にしていないのだろう。
伯符は少しぼーっとしながら寝る前に何をやっていたかを思い出し、外の景色がすっかり闇に染まっているのを知ると、眠気が吹き飛んだのか、慌てて飛び起きた。
「うわっ、悪りぃ公瑾!!寝てた!」
「いや、気にするな。起こさなかった俺も、同罪だからな。」
「は?何言ってんだよ。どう考えても悪りぃのは俺だろ……。」
語尾が段々小さくなったと思ったら、難しい顔をして黙り込んでしまった。
「どうした伯符。」
「俺が寝てる間に、何があった。」
それは最早問いでは無く、何かあった事前提の言葉。
「いや、特に変った事は無いが。」
「なら、俺の前で作り笑いはするな。」
「…っ」
「言えよ。何があった。」
伯符の指摘にギクリと体を強張らせた。
昔から伯符には作り笑いは通じない。何故か必ず見破られる。
それを好ましい所だと思っているが、今はまずい。
この友情を超えた気持ちを、悟られる訳にはいかない。
気付かれたら、全て失う。
(大丈夫だ。伯符は気付いていない。誤魔化す事など、いくらでも出来る。)
「…少し、疲れただけだ。」
「……本当か?」
「あぁ。そもそもお前が寝ている間、ずっとここにいただけだぞ?何かがある筈が無いだろう。」
伯符は偽りが無いか確かめるようにジッと俺を見る。
だが、伯符も気配に敏感なのは自覚している。
寝ている間に悪い報告があった訳でも、刺客が現われた訳でも無いと分かっている筈だ。
簡単な言い訳だが、バレない自信はある。
本当の理由に至っては、……想像すらつかないだろうから。
案の定、ここいるだけで何かがあったとは伯符も思えなかったのだろう。
偽りが無いと判断し、「そうか」と言って小さく息を吐いた。
嘘ではない。ただ、疲れたのは仕事にではなく、お前を思い続ける事に……なのだが。
勿論伯符はそんな事に気付く筈も無く、仕事が大変だったのだろうと判断したらしい。
寝ていただけに、どこかばつが悪そうだ。
「あんまり、無理すんじゃねぇよ。無理だと思ったら、諦めて休んでろ。」
「無理だと思うなら諦めろ。」その一言が自分の気持ちを指摘しているようで、ズキリと胸が痛む。
諦められたら、どんなに楽だろうか。
「…そう出来たら、楽なんだがな。」
(諦めなければ、苦しいだけ。そんな事は分かっている。)
この感情の名前を言わぬまま本音を呟くと、伯符は不思議そうに首を傾げた。
「公瑾…?おい、本当に大丈夫かよ。」
「そう、だな。」
だが、諦めても苦しいのも知っている。
「……苦しいのか?」
感情が表情に出ていたのだろう。
伯符の顔が心配そうに歪められる。
「苦しい、のかもな。」
「……そうか。」
伯符は静かに相槌をうってから、気さくに、でもどこか気遣うように俺の肩をポンと叩いた。
「お前は真面目過ぎんだよ。今日はもう休んどけ。」
「……そうだな。そうする。」
伯符に背を向け、退室しようと扉に手を伸ばす。が、
「…どうせだから、明日も休みにするか。最近忙しかったしな。」
「…………は?」
いきなりの提案に思わず足を止めて振り向いた。
だが、伯符は自分の提案を気に入ったのか、更に具体的に考え始める。
「確か、そんな急を要する仕事は今は無ぇんだよな。だったら明後日から頑張りゃ良いじゃねぇか。」
伯符は内政は苦手だが、それでも内政を疎かにした事は無い。
休むと自分から言い出すなど滅多にないのだ。
こんな事を言い出すのは、やはり俺を心配しての事なのだろう。
だが、流石にこんな事でこれ以上執務が滞るのはまずい。
「いや、だが…」
「ぐだぐだ言うな。もう決めた。明日は休みだから、諦めて休んどけ。」
何とか止めようとする俺の言葉を一蹴して、悪ガキみたいにニヤリと笑った。
「……それに、俺も久々にお前の笛聞きたい。楽隊の奴等の楽も嫌いじゃねぇが、やっぱ公瑾のが一番だからな。」
「………」
不意打ち、だ。
これを無意識にやっているから質が悪い。
(そんな事を言うから、余計諦められないんじゃないか。)
この感情の責任を伯符に少し擦り付けて、心の中で白旗をあげた。
(降参だ。)
諦められれば良いのは分かってる。
それが親友として、部下として正しい形だ。
でも諦められない。
惹かれずには、いられないんだ。
「…それは、お前も休みを取るという事か?」
心の内を綺麗に隠していつも通り呆れたように尋ねると、伯符は面白がるように目を細めた。
「堅い事言うな。たまには休日も必要だろ?」
悪びれずに図々しく言い放つ伯符に、わざと大きくため息をつく。
「全く、本当に仕方無いなお前は。」
「今更何言ってんだ。こういう奴だって分かってるだろ?」
「まぁな。」
「…おい、ちったぁ否定しろよ。」
「本人が言ってるんだ。否定するのもおかしいだろ。」
お互いに軽口を叩き合い、顔を見合わせたら何故かおかしくなってきて。
いつしか二人揃って笑っていた。
秋の静かな闇夜に、楽しそうな笑い声が響いた。
喜び、悲しみ
虚しさ、感動
幸、不幸
反する感情は常に共にある。
あぁ、なんて矛盾。
だが、それが苦しいと分かっていても、逃れられない。
ただひたすらに、お前を思う。
それは
永遠に続く
矛盾のループ