「幼木は嵐を知り空を仰ぐ」
広大な大地。
平地が何処までも続き、それを遥か遠くで山と川とが遮っている。
その広大な地に集い展開して、敵対する双方。
あと、数刻もしないうちに戦が始まるであろう。
建物の建たぬその地には、唯一急ごしらえの柵があるだけで、戦が終わるにはどちらかの総大将の首が必要だった。
最前。 其処に居るのは、呉の総大将―孫堅とその家族。
誰もがこの戦に赴く様だ。
「出るぞ」
孫堅が重々しく呟けば、戦の前線へと向かう孫策、孫権、尚香が馬にひらりと跨った。
孫堅が前方の敵を睨めば、孫策が不適に笑い、孫権は深く息を吐く。そして、尚香の顔に 浮かぶのは緊張と不安。
「行ってきなっ」
呉夫人が、パシリと孫堅の乗る馬を叩くと、孫堅が笑みを浮かべてあぁと頷き、馬が嘶く。
「後方支援は、私達に任せておくんだよ」
今度は、呉国太が尚香の馬をパシリと叩いた。 尚香が。こくりと頷いて笑う。
「大暴れして、無事に帰って来い」
呉景が笑って、孫策と孫権の馬を叩く。
二人は頷き手綱を引いた。
「気を付けて…」
呉国太がもう一度、尚香に声を掛ける。
すると、尚香よりも早く男三人が振り返り。 『任せろ』 と言って、尚香を叩いてから駆け出した。
尚香が笑って、母達に頷き返してからその後を追う。
戦の始まりである。
馬が大地を蹴り駆けて行く。
景色がどんどん後方へと去り、敵が近づいて来る。
「権。お前は私と来い!」
風の音に負けぬ孫堅の声が下の息子、孫権へと届く。
「はい!父上!」
孫権は馬の動きを変える。
「尚香っ。お前は策とだっ!」
妻達に任せろとは言ったものの、四人が四人一緒に行動するわけにはいかない。
四人とも 価値の高い将だ。だから、孫堅は素早く指示を飛ばし大切な娘を、上の息子孫策へと託す。
一番信頼の置ける彼に。 そして、後方を軽く振り返り孫堅は尚香を見遣る。
「っはい!お父様!」
「策、尚香を頼んだぞ」
言い終えれば、孫堅は前方へと視線を戻し、もう振り返らない。そして、大きく腕を上げ 剣を掲げた。
「任せろ、親父!」
孫策の声が響き、孫堅は大きく笑った。 そして、掲げた剣を振り下ろす。
「全軍っ!かかれーーっ!!」
『おおおぉぉおぉ――――っ!!!』
敵味方、全ての兵の声が重なり合い、その声は轟き大地を揺らし天を突く。 最前線から、剣撃の音が響きだした。
「尚香、初陣だな」
孫策が剣を抜き放ちながら隣を駆ける妹を見た。
「うん、兄様」
やはり、どこか緊張した面持ちの尚香をを見て、孫策は小さく苦笑する。
「大丈夫だ、何時ものお前なら雑兵なんて敵じゃねぇよ。俺が、保証する」
にかりと笑う孫策の姿は頼もしい。
「それに、俺が居る。いざという時は俺を頼れ。違う場所にも親父や権、お袋や叔父きが居る。でもな、無理せずに逃げるのも大切だからな?忘れるんじゃねぇぞ?」
孫策は、馬を巧みに操り尚香の隣へと馬を寄せれば走る速さを合わせ、尚香の頭を撫でた。
「うんっ」
孫策の手は直ぐに離れたが、尚香は擽ったそうに瞳を細めて笑みを浮かべた。大丈夫、皆が居る。
「さぁて!いっちょ暴れるぜぇっ!!」
孫策が振り上げた剣が、突っ込んできた敵兵を一人、斬り伏せた。
尚香も武器を振り上げる。
自分が望んでやってきた戦いの世界。
背は向けられない、前 へ、前へ。
武器を大きく振って、敵兵を馬から叩き落す。 これが、始まり。
雑兵一人を倒したくらいで、安堵なんてしていられない。次々に襲い掛 かってくる兵を確実に地へと伏せさせて行く。
大丈夫、戦い方は知っている。
兄にも父にも、母にすらも戦いの仕方を教わってきたのだ から。
敵を幾人も伏せさせて行く中、尚香は孫策と離れつつある事に気づかなかった。
敵が、刃を振り上げてくる。受け流し、己も刃を振った。
敵兵が悲鳴を上げ、血飛沫が 舞った。尚香は一瞬息を呑む。
そういえば、実際に人を斬ったのは今の敵兵が初めてだった。
「――っ!」
手に残った人を斬った感触。
そして、生温かい赤い、血。
それらの感覚に、尚香は吐きそうになってそれを無理やり飲み込んだ。
身体が震える。こ れが、人を殺すと言う事か。これが、戦か。 僅かな思考の混濁が、隙を生んだ。
「っ!あっーー!?」
咄嗟に無意識に動いた身体のおかげで肩口を軽く斬られる程度で済んだが、その際に崩したバランスで馬から落馬してしまう。
「かっ――ぅっ」
背中から落ちて、肺から空気が抜けた。
苦しみに顔を歪めて、その時に溢れてしまった涙 で視界がぼやける。
痛みに起き上がるのを一瞬躊躇ったが、命のやり取りをしている戦場で転がっている場合 ではない。
身体を無理やり引き起こし、直ぐに体勢を整えようともがく。
次の一撃が来た。
受け流し、相手のその力を利用して逆にこちらが叩き伏せる。
迷っても、考えても居られない。
生き残る為に、この戦に勝つ為に、二人目、人を斬った。
身体に覚えさせた戦い方をただひたすら行って、数人斬り伏せていた。
返り血が頬に掛かり、顎を伝い落ちる。
無言でそれを拭った。 止まっている所為で、何時しか周囲を囲まれ始めた。
どうにか抜け出さねば、殺られてし まう。
気が急いて、簡単に防げる筈の敵からの攻撃をギリギリで防ぐを繰り返す、尚香。
肩の傷がじくじくと痛む。
まだ、大丈夫だが。
どうにか頭を働かせせ、一点突破を試みようと思う。
なるべく手薄な一点を素早く選んで 狙い、一歩踏み出し一人を斬り伏せ、二人目を吹き飛ばす。
道が、出来た。
躊躇わず、大地を蹴って跳躍するように包囲網から抜け出して、振り返る事無く駆け抜ける。
暫く進んで、急停止。右足を軸に反転。
逃げ切れるとは思っていない。
だから、ある程度の所で敵と対峙する事を選んだ。
敵兵はすぐ背後に迫っていたが、尚香の急な反転で一瞬驚き、動きが止まった。
其処へ、 尚香は刃を叩き込む。 赤い血が、また舞う。
「次っ!」
声を荒げて自分を奮い立たせる。 大丈夫。まだ、大丈夫。 だが――。
がつん――っ!
後頭部に衝撃が走った。
ぐらりと身体が傾ぐ。
背後、前方に気を取られていたその隙に殴られたようだ。
初歩的なミスに尚香は苦笑う。
こんな失態を犯すなんて。
兄に、父に、母に、怒られる。 しかし、そう思えるのも生きているからこそ。
敵は手加減なんぞしてくれる筈も無い。迫 る敵の武器に、身体が言う事を利かず動けない。膝を付いた状態。
思わず、身体を硬直させ、目を閉じた。
きっと、大丈夫。致命傷にはならない。
言う事を利いて。お願い。
纏まらない思考は、一瞬の物。
だが、何時まで経っても衝撃はやって来ない。
もう死んだのか?なんて思いながら、薄らと瞳を開き、尚香は驚愕する。
其処には、こちらを見て微笑んでいる孫策の姿があった。
ツ――と、孫策の額から血が一筋流れ落ちる。
「にっ、兄様ーー!?」 尚香を敵からの一撃から護ったのは、孫策だった。
「大丈夫か?尚香。済まねぇな、遅れちまって。良く、一人で頑張った」
そう言うと、孫策は何時ものようににかりと笑う。
尚香は驚きに目を見開き、孫策を見つめ、そして泣きそうに顔を歪める。
「泣くなっ!」
ぐわっと立ち上がり、敵を力で押しやり、弾く。
すかさず、向きを変えてその敵を容赦無 く斬り捨て、尚香を見下ろした。
「戦は終わっちゃいねぇ。お前は生きてる、俺も生きてる。前へ進め!さぁ、立て!尚 香!!ここは戦場だぞ!」
兄の笑みは消え、其処にあるのは孫策と言う一人の将。
そんな孫策の視線は、もう戦場へと向いている。そう。
ここは戦場。
甘えは許されない。 尚香はぐっと息を呑み込んで、立ち上がる。
兄の背を見て、その背に自分の背を合わせた。
「兄様の背はっ、あたしが護る!」
「へっ、上等!任せたぜっ!」
踊り来る敵兵。兄妹は、不適に笑い合った。
孫策が豪快に舞えば、尚香は繊細に舞う。
どちらもが、どちらをも補う。其処に、隙は無かった。
敵がどんどん、地に積み重なる。
敵兵は、二人を恐れ、囲いの幅が広がった。 退くか、向かうか。
一瞬の敵兵達の戸惑い。それが、生と死を分けるとも知らず。
そして、遠くから勝鬨が上がった。
戦場に動揺と勝利の声が広がって行く。
「孫堅様っ!敵総大将討ち取ったりぃぃーーーっ!!」
孫策と尚香は顔を見合わせ、笑い合った。
この戦は、孫呉の勝利で終わる。
勝利が戦場に伝わり、混乱と喧騒が退けば孫策と尚香は陣へと戻った。
勝利を喜ぶ声を掻き分けて家族の元へ。
その途中、孫策が口を開く。
「尚香。退くのも大事だといっただろう。無茶しやがってお前はぁ」 まったくと、孫策の顔は兄のものへと変わっていた。
「ごめんなさい、兄様。もう、無我夢中で……」
しゅんと頭を垂れる尚香の頭を、孫策はわしゃわしゃと撫でてやる。
「ま、仕方ねぇか。後は。慣れるしかねぇもんな。ん、頑張った」
ぽむぽむと孫策は尚香の頭を優しく叩いてやる。尚香、小さく笑った。
「兄上っ!尚香っ!」
近場から、名を呼ばれ孫策と尚香が顔を上げる。
孫権が二人に向かって手を振っていた。
其処には、家族が揃っている。
「おぅ!」
孫策が手を上げて、尚香が笑う。
「無事なようだな」
呉景が、笑んだところで呉夫人が前へと踏み出し。孫策を殴った。
「痛てぇっ!?何しやがる、お袋っ!」
「何しやがるじゃないっ!尚香に怪我させて、何やってんだい!」
うっと、孫策が言葉に詰まると、その横を通り過ぎ呉国太が尚香の側へ。
孫堅、そして孫権と呉景。
三人は笑みを浮かべている。
「頑張ったね。さ、治療するよ」
そっと、呉国太は尚香の手を取って歩き出す。
尚香は、暫くして家族の反応に笑い出した。
戦は確かに怖かった。逃げたくなった。
けれど、この家族の笑顔を護れるなら。
自分は、 また戦場へと出ようと。
そう、自分は国の為でなく。家族の為に。
尚香は、空を見上げた。
天は蒼く澄み渡っていた――。
2007.08.10