孫策
死にネタのお話
~へシリーズ①
黄緑作
体が軽い。
今だったら空だって飛べそうだ。
怖い事は何も無い。 だって、あの空はこんなにも懐かしい。
(あぁ、そっか。)
何かが心にストンと落ちてきて理解する。
そうだ。怖いはずが無い。
あそこは、俺のもう一つの故郷。
そこへ行くのだから、例えここが何処であろうと、辺りに誰も居なかろうと、恐れは無い。
けれどもう少し待ってくれ。
まだ、やり残した事があるんだ。
「伯符様…!伯符様!!」
悲痛な叫びに重い瞼を持ち上げる。
ぼんやりとした視界には、泣腫らした目をした大喬が写った。
(何とか、こっちに戻ってこれたみてぇだな。)
先程の浮遊感は消え去り、それに代わって与えられのは束縛と苦痛。
重い体は重力に押し潰されるかのように満足に動かせない。
その上、呼吸は苦しいし、体も真冬の空の下に居るかのように冷えている。
けれど構わなかった。
(おまえに会えたのなら。)
安堵して大喬に微笑むが、大喬の目からは涙が次々と溢れて止まる気配をみせない。
きっと大喬も分かっているのだろう。
終りの時が来た事を。
「なぁ大喬。分かったんだ。」
自分でも笑える位掠れた声を出しながら、力の入らない手で大喬の頬を伝う涙を拭う。
本当は抱き締めて大丈夫だと言ってやりたかったが、それももう無理な話だから。
せめて、忘れないようにしようと、自分を思って流れる涙を、そして、温もりを心に焼き付けて。
「分かったんだ。死んでも終りじゃ無ねぇって。消滅するんじゃ無くて、還るだけなんだって。」
「還る……?」
涙に濡れながら、それでも顔を上げてくれた大喬に静かに頷く。
「あぁ。俺の魂が生まれた所。もう一つの故郷である、月に。」
俺の言葉に驚いたのか、潤んだ瞳が何度も瞬く。 場違いだとは思うが、綺麗だと思った。
「そこでずっと見守ってる。ずっと、ずっと見守ってる。」
「伯、符…様…」
「だから。」
お願いだ。
「…俺を追って、死んだりするんじゃねぇぞ。」
大喬の瞳がこれ以上無い程見開かれる。
動揺を表すように、指先が震えていた。
その反応に、やっぱり、と思う。
ずっと気になってたんだ。
最近、泣いてはいたけど、あまり動揺した風には見えなくて。
悲壮な表情の裏に、何か覚悟のような物が見え隠れしてた。
(駄目だ大喬。)
確かに、ずっと一緒に居たかった。
離れるなんて考えられなかった。
でも、死まで分かち合おうとは思っていない。 おまえには、未来が残ってんだから。
「伯符様、私、は…っ!」
顔を強張らせながら、絞り出すように言葉を紡ごうとする大喬に、無理に話さなくて良いと、首を左右に振って伝える。
言いたい事は分かってる。
置いて行く俺が偉そうに何か言える立場じゃ無いし、大喬を追い詰めたい訳でも無い。
でも、その代わり、約束をしよう。
「これで永遠の別れじゃ無い。おまえが満足する人生を最期まで送れたら、おまえを必ず迎えに行く。だから、それまで生きろ。」
「伯符様……」
「約束してくれるよな?」 半ば強引に尋ねると、大喬は何かを堪えるようにキツく目を閉じ、俯いた。
それから、どの位時間が経っただろうか。
大喬は何度か何かを言いたそうに口を開いたが、最後には弱々しくだが、小さく頷いた。
「……………はい。分かりました。」
悲壮感は漂っているが、大喬の顔から死の影が消え去ったのをみて大きく息を吐いた。
この事がずっと心残りだったから。
と、その時。
(……っ!?)
「どうなさいました?!」
側にいる筈の大喬の声がどこか遠い。
やりたかった事をやり遂げて、気が抜けたと同時に酷い眩暈が襲った。
気を失うどころの話では無い。無理矢理に意識が引き剥がされる感覚。
世界がグルリと回る。
重力が逆さまになったみたいだ。
(空に、墜ちる。)
正しく、そんな感覚だった。 もう、時間は無いらしい。
「……大喬。」
もう終りだというなら最期に伝えよう。
何より大切なおまえに。
「あいしてる。」
何とか笑って言えただろうか? 最期には、笑って別れたいんだけど。
そんな願いが通じたのか、大喬はもう力が入っていない俺の手に指を絡めて泣き笑いの表情で頷いた。
「私もです、伯符様。あなたの事が、誰よりも。」
涙に濡れた笑顔だったけど、その表情は俺への気持ちが溢れていて、愛しいと、心から思った。
けれど、段々その表情がぼやけてくる。
もっと顔を見ていたかったけど、もう限界だ。
意識が遠くなっていく。
『…ありがとう』
今までの感謝を込めて、そう言いたかったけど言えたかどうかは分からない。
でも、もう良い。
ここまで出来たなら上出来だ。
意識が成す術も無く空に墜ちて、月へと、還っていく。
(またな。大喬。)
それでもどこか穏やかな気持ちのまま、俺は目を閉じた。
なぁ大喬。どうしても辛くなったら空を見ろ。
月でずっとおまえを見守ってるから。
だから、大喬。おまえは生きて、未来へ。
2008.08.10